呼吸音
夜勤のアルバイトが早く終わり、家から5駅ほどの距離を歩いて帰っていた。家まで帰るには一つ大きな川を渡らないといけない。花火大会をやるような都内の大きな川だ。その日は5月の夜風も気持ち良くて湿度も不快でない、Tシャツごしに優しさを感じる時期だった。
街灯だけを頼りに歩く土手はワクワクした。川は街のビルの灯りや工事現場の電気が反射した黒いオーロラだった。草むらが時々ガサガサ言うと猫が顔を覗かせた。空にはまだ微塵の仄明るさもなく、目を皿にすれば星が見え、月は満ちた後欠けたのか欠けた後満ちたのか、中途半端な檸檬型だった。家に着いたらまず一本ビール飲みたいな。読みたい本がAmazonから届いてた。そういえば調べたい古着屋があったな、なかなかあの子に会えてないな、10歩歩く毎に浮かんでは消えるような由無し事を考えながら歩いていると、川の方から『ザバザバザバザバ』と激しい水の音がした。
「なんだろう?」
あまりの激しい音だったが、大きな魚が暴れたのだろうと読んだ。街灯は川の中のその部分を照らしていないので、暗くて何も見えない。気になったのでギリギリ目視出来そうな位置まで近づいて目を凝らして確認し、気がついてしまった。真っ黒い人間が背を上にして水に浮かんでいた。
最初に、「死体だ」と思った。今まさに殺人事件が起きて遺棄されたのか。それとも自ら飛び込んで、いや、こんな一瞬で生命は絶たれない。事件なら逃げるべきか、通報するべきか、自分も危険なのでは…
そんなことを考えていると、背を向けていた人間はぐるりと寝返りを打った。水が身体の大きさと動き通りの音を立てた。顔も身体も頭から指の先までそれは真っ黒だった。ツヤのあるゴムをぴっちり全身に貼ったかのように、艶のある黒だった。目はギョロリと大きく、こちらを見ていた。人間の目の大きさではなく、テニスボールくらいの大きさであった。目を凝らさなければそれ以外の顔のパーツは確認出来ないが、既に恐ろしさを感じて見てはいけないと察した時、大きな口が白い歯を目立たせながらニィっと笑った。
思わず息を呑んで走り出した。見たことないもの。笑った顔に寒気がした。ヒトガタでありながらあれは人間ではないような気がした。あの姿が頭から拭えぬまま全速力で走った。自分の耳が詰まって息が大きく聞こえる。逃げなければ。自動で動く機械のようにただただ遠くまで逃げた。
暫く走って大きな橋に辿り着き、信号機が見えた。ここまで来れば大丈夫だ。横切る大型トラックに安堵した。
横断歩道を渡り終えて、橋をゆっくり歩いて帰ろうと思った。冷や汗や脂汗、全ての汗とつくものが全身を濡らしていた。安堵した途端、夜風の涼しさを感じた。さっきまで大きく聞こえていた呼吸がどんどん静かになる。
「なんだったんだろうな」
振り返ると、黒光りしたヒトガタがこちらを大きな目で見つめ口を横に大きくニィっとさせながら、うつ伏せのまま地面に身体を『びた、びた』と鈍い音で打ち付けアザラシのように横断歩道を渡っていた。