
2度と会えなくなれば
高校生のとき、3年間お世話になった先生が性犯罪の現行犯で捕まった。
私は出来の悪い生徒で、「週明けに職員室で補習をしよう」と提案されたその週末に先生はいなくなった。
3年生ともなれば高校におけるほとんどのイベントは終わり、それゆえ卒業アルバムの写真も撮り終えていた。
しかし、事件によってすべての写真から先生の姿や影は跡形もなく消され、存在も禁句となった。
泣くほどの思い出もなかったが、
何も思わずにいられるほどの距離でもなかった。
凄い技術だ、と思うと同時に、最初から居なかったかのような不安と、不自然な空白だけが残された。
そして、もう2度と会えないとはこういう形もあるんだ、死に別れるときと似ているな、となんとなく思った。
あれから8年の月日が流れた。
私は、大学時代長い時間を共に過ごした友人のSNSのアカウントを開いた。
「フォローする」
の画面が表示された。
IDやプロフィール画像が変わっている。
しかし、過去のやり取りを遡れば、そのアカウントは彼女のもので間違いなかった。
同じ授業を履修し、3年間同じゼミで語らい、薄暗い喫茶店で駄弁り、卒業旅行に行き、1年遅れた私の卒業式に駆けつけて花束までくれた彼女に、
ブロック解除されていた。
ブロック解除とは、ブロックしたあと解除すると、アカウントが繋がる前の状態に戻すことができる。
つまり、白紙に戻されていた。
どうして、と思った。
鍵アカウントのため、中身を見ることはできない。そもそも彼女のアカウントに元から鍵がついていたかどうかも今となっては思い出せない。
50人フォロー、50人フォロワーがいる。
その50人から私は弾き出されてしまった。
かつて、彼女との海外旅行を前日にキャンセルした子がいることを思い出した。
ある手順を踏んで調べてみると、その子は50人に含まれていた。
海外旅行をドタキャンした子は大丈夫で、
私はダメだった。
その違いは何だったのだろう。
1月まではLINEグループでも会話をしていた。
しかしこれも、よく見れば最後の方は彼女の既読はついていなかった。
彼女と過ごす時間は楽しかった。
大学で出会えた友人の中で1番面白い人を挙げるとすれば彼女が該当するくらいに。
自由で、無責任で、でも義理堅くて、賢くて、ユーモアに溢れる彼女が大好きだった。
本人に理由を聞けばいい、と人に言われた。
しかし聞いたところで、元の関係には戻れない気がした。
悲しまされた分、理由を知る権利くらいあるのではないかとも思った。
そこで私は、自分をブロックするほどの彼女の容態を心配するでもなく、ブロックされた私が悲しくて可哀想で仕方ないことに気がついた。
去り際に人となりが出る。
10年後まで仲良くできる人だって限られている。
楽しかった思い出だけを大切にすればいい。
2度と会えないならば、
終え方だって私の自由でしょ。