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ギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」評

身振り手振りでつながるクリーチャーズ

 ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」(2017)という作品を紹介したいと思います。2017年度のアカデミー作品賞を受賞したので、観た方も多いと思われるので、この拙文を読みいろいろなことを感じてくれたらな、と思いアップします。

 あらすじは、1960年代前半のアメリカ。主人公はイライザという女性です。イライザは宇宙開発センターという国家機密機関の清掃員として働いています。彼女は、理由は定かではないですが、首の外傷により、声帯機能を失っており、声を出すことができません。彼女と同じアパートに住む、中年男性で同性愛者のジャイルズは彼女の良き理解者であり友達です。職場にも同様に、彼女の10年来の友達である黒人女性ゼルダがいます。
 ある日、センターにアマゾンの奥地から捕獲された謎の生命体が運ばれてきます。それは鋭い爪、牙を持ち、背びれやエラを持った異形の(半魚人のような)水生生物です。また、ひじょうに攻撃的で、それは冷酷な警備主任のストリックランドの指を噛みちぎる程です。イライザはある日、怪物が監禁されている部屋を掃除している時に、好奇心から怪物に接近します。初めは恐る恐るでしたが、やがて両者の間の警戒心も解け、いつしか周囲に隠れて逢瀬を重ねます。しかし、国の意向により、未知の生命体たる怪物の生体を調べる為、生体解剖が行われることになります。その情報を偶然知ったイライザは、生体解剖が行われる前に、怪物をセンターから逃がそうと決意します。そこに表向きはセンターの研究員、しかし実はロシアからのスパイであるホフトステラーが加わり、更に友人のジャイルズ、エルザの協力のもと、怪物をセンターから脱出させる事に成功する。そして怪物をイライザのアパートに匿います。怪物を海へと返す為、降雨によって水路の水位が上がるのを待ち、ある雨の降る日、怪物と共に桟橋へと向かう。しかし、怪物の居所を突き止めた警備主任ストリックランドがそれを追うー


  この作品は、コミュニケーションの問題に根源的な問い掛けをしているように思えます。その問い掛けとは、コミュニケーションは本来、私たちが思うような共通の規則や基盤などはなく、一回一回が前例のない試みである、ということです。
 私たち日本人は同じ言語、文化背景を持っているのでこのことは往々にして隠蔽されます。その為、コミュニケーションには共通の規則があり、それにさえ従えば健全な意思疎通が可能であると私たちは信じています。
 ところが、本来そんな規則など存在しないことを痛感する場面があります。外国人と接する時がそうでしょう。或いは動物と接する時を考えてみてください。彼らと接する時、両者の間に共通する規則、基盤(言語、文化、習慣、宗教等)などなく、自分の意思が相手に伝わっているのか私たちは不安を覚えるでしょう。コミュニケーションとは本質的に均衡を保っているわけではなく、両者の間を不安定に揺らいでいる流動的で(まさにシェイプ・オブ・ウォーター!)不均衡なものだと、彼らと接する時に痛感させられるからです。
  これは何も外国人や動物といったイレギュラーな場合に限らず、同一言語を話す者、親しい者同士が接する場合でも言えることです。
 私たちは発話の前段に、自分の心象風景に浮かぶ複雑な色模様を、既存の語彙に当てはめなければなりません。しかし、色模様と語彙が合致することはまずなく、近似値の語彙が消極的に選択される。そしてその言葉を相手に伝達する。でも、私たちはその言葉が相手に過不足なく伝わっているのか確信できない。何故なら私たちが「赤」と言った時、相手にとっての「赤」は、血の「赤」なのか、りんごの「赤」なのか、はたまた夕焼けの「赤」なのか私たちには知る由もないからです。


  作品内において、凡ゆる場面でそのことは問われます。それも極めてラディカルなかたちでです。
  先ず、主人公のイライザは言語障害で話せません。怪物も人間の言葉を話さず、呻き声、叫び声しか発しない。しかし、だからといって彼らが周囲にディスコネクトかと言ったら決してそうではない。むしろ、こう言って良ければひじょうに多弁と言えるでしょう。
 では、彼らはどのようにして周囲とコミュニケーションするか?それは、身ぶり、手ぶり、(それは主に音楽、ダンスによって誘引されます。)によって成されます。
 例えば作品冒頭、イライザがジャイルズと共に、TVで映画を楽しみながら、そこから流れる音楽に合わせタップダンスをしたり、怪物が監禁された部屋で、イライザが持ち込んだポータブルレコードで音楽を鳴らし、ダンスするシーン(個人的にこのシーンで号泣。素晴らしい!)などによって表象されます。また、イライザが怪物を逃す協力をジャイルズに求め、説得するシーンは感動的です。彼女の身ぶり、表情、体ぜんぶを使って切実な思いを相手にぶつけます。コミュニケーションは本源的に不確定で安定した基盤などないことを、彼女は声帯を失っている故に熟知しているのです。
  この作品内では、身ぶり手ぶり、は言葉・言語に代わるメタ言語として機能します。そして、言葉・言語による表現と比較した時のその圧倒的なみずみずしさ、豊かさに私たちは驚かされます。


  私たち日本人は、いつの頃からか公の場で歌わなくなり、踊らなくなりました。(踊らされている人はよく見かけますが)ほんのひと昔前までは、冠婚葬祭は勿論、仲間内の飲み会といったプライベートな場でも人々は歌い踊りました。
  ところが現在、世界の中で日本人だけがそんな場所からことごとく歌とダンスを排除したのです。(そう、日本人だけが!それ以外の国の人々は実に自然によく踊ります。そんな光景を目にしたり、耳にしたりする度に、「そうだよな、ゼッテーそうだよな。」と、妙に納得してしまいます。)カラオケがあるではないかと反論されるかもしれませんが、カラオケは極めて閉鎖的で自己完結的なものだと考えています。他人が歌っていても自分の選曲に余念がなく、それを糊塗するような曲間の空虚な拍手、合いの手のルーティン。歌う方も一方的な満足感と、フラストレーションを吐くことが主目的でしょう。「カラオケボックス」という名称は実にこの閉鎖性を言い得ています。最近では一人カラオケというのが定着していますが、同語反復としか思えない。何故なら、五人で行こうが十人で行こうがカラオケは本質的に一人カラオケなんですから。
 こうも言えるでしょう。ダンス、歌を抑圧した反動として、カラオケや、地域の盆踊り大会的な、ダンス・歌が時間的・空間的に隔離・限定され、制度化された場所での躁的な騒ぎがあるのではないか。(あの騒ぎには、まるで電源を切・入するかのような不自然さがあります。)あれは日常からダンス・歌を排除した結果ではないか。飲み会などで「無礼講」といった大義名分がつくや、途端に安心し、必要以上にハメを外してしまう国民性を表しているように思えます。

  現代の日本人がこのように日常、非日常の双方の場から、歌とダンスを閉め出したことを、私はけっこう真剣に憂慮しています。たかが歌とダンスと思うかもしれませんが、何かこの事は重大な喪失ではないか?現代の日本人が総じて元気が無く、他人の評価に過敏で、人の失敗に不寛容なことと何処かで繋がっているのではないかと考えています。古来より人は祭りや祝い事、狩りや、漁といった労働の場で歌い踊ることにより、反復される日常の中で、澱み、停滞してしまった時間を蘇生させてきたのでした。喜び、怒り、官能を歌い踊ることで外的に放出することは、精神・肉体を浄化する最良の手段なのです。本当かよ?っていう人は一度音楽に合わせて踊ってみればいい。凄く楽しいですから。そしてまた踊る人を見るのもとてもいいものです。以前、野外フェスで見ず知らずの女の子が踊っているのを見てとても感動した経験があります。そのダンスを通じて、彼女がどれだけ今、この瞬間に音楽によって満たされ、幸福なのかが直接伝わってきたからです。
  ダンスはこのように踊る側は勿論のこと、見る側も浄化させる。日常空間を忽ちのうちに祝祭空間に異化させる身体による詩的行為なのです。

  また、この作品では外部・他者との関わり方についても様々な示唆を与えてくれる。
 


 1960年代のアメリカという極めて高度な管理社会の中で、イライザたちはどのような位置づけとなるのか整理してみましょう。
  先ずイライザは言語障害により話すことができない。ジャイルズは同性愛者であり、ゼルダは黒人、ホフトステラーはロシア系移民と、まるでマイノリティの見本市とも言えます。
 今でこそ彼らのようなマイノリティには、社会は寛容で理解がありますが、(それでもまだまだ根強く差別、抑圧されていますが)1960年代のアメリカではどれだけシビアなポジションであるか、推して知るべしでしょう。
  そして怪物はその中でも特異な位置を占めます。その異形故に、私たちはそこに凡ゆる排除のメタファーを投影するでしょう。そう、怪物は、奇病、コミュニスト、有色人種、異教徒など様々な差別項が代入可能なXなのです。
  彼らは前述したように言葉・言語を重視せず、身ぶり手ぶりによってコミュニケーションする。これに対し、高度な管理社会を体現する警備主任のストリックランドは、言葉・言語を重視し、支配しようとする。それは、彼が怪物の叫び声を嫌悪したり、妻との情交の際も口を手で塞ぐ(言語化できない「声」の否定)、トイレで用を足す時も両手を使わない(身ぶり手ぶりの否定)といった行動からも表されています。
  言葉・言語とは、管理社会にとって未知の概念、事象(外部・他者)を馴致、平滑する整流装置であり、そこから弾かれ、包摂できない部分はノイズと判断し排除する機構に他ならない。そして言葉・言語を持たない者たちには歴史はない。怪物とイライザの出生、生い立ちといったものが、作中でまったくと言っていいほど言及されないのはそのようにして解釈すべきでしょう。ノイズは再び外部・他者として社会の周縁へと追いやられるのです。そんな周縁へと追いやられた故に、社会的に(ジャイルズ、ゼルダ、ホフトステラー)、そして身体機能的(イライザ、怪物)に言葉・言語を抑圧された者たちが、身ぶり手ぶり、音楽、ダンスといったメタ言語で繋がるのは必然だと言えます。  
 そして前述したように、このメタ言語の圧倒的な優位を感じるのです。イライザたちは人種、性差、生態系(!)を越え、結びつく。他者・外部を肯定的に取り込み、実に生き生きと躍動します。
  対してストリックランドに代表される管理社会は快適な住居、自家用車や堅実な将来設計など、すべての活動は合目的的になされます。つまり、生産、労働、経済、娯楽といった各セクションには意味と目的が要求されるのです。そのような社会では、「何故そうしたか?」「何の為にするのか?」といった問いかけが凡ゆる行為に対してなされ、その終わりなき理由づけの中で人々は疎外され息苦しさを覚えます。そして、無意味、無目的であることが潜在的に欲望されます。そう、管理社会にとって究極の贅沢とは意味のない活動に他なりません。(vacationの語源はvacuum 空っぽ、つまり何もしないことです。)
 それ故に、管理社会の人々が、イライザたちのような非合理的で可視化されない欲望(情熱と換言しても良い)に突き動かされる者に対して抱く羨望と憎悪は極点に達します。彼らが排除、攻撃されるのは必然的であるといえます。

  翻って私たちの社会のムードに当てはめてみるとどうでしょうか。他者に対し無関心で冷淡、また特定の国の人に対して差別的な感情を露わにする人々をよく目にします。このような価値観からは何も生み出さないと断言できます。痛み、摩擦、戸惑いは避けられませんが外部・他者と交わることで私たちは活性化するのではないか。閉鎖的な人間、社会はその潔癖性故に自己崩壊するのではないでしょうか。そう、ストリックランドの壊死した指のように。このことは病理学でアナロジーすると興味深い。

  野口晴哉の著書、「風邪の効用」によれば、風邪は人間の身体を病むものではなく、その反対に身体を活性化させるものだと定義します。風邪は日常の身体の歪み、凝り、毒素といったものを発熱、嘔吐、下痢といった症状により改善する働きがある。だから氏は「風邪を治療する」とは言わず「風邪を経過する」と表現します。
 対して西洋医学をはじめとする現代医学では、風邪、病を外部から来た異物、敵とみなします。それは医学に留まらず、政治、文学、神学と凡ゆる分野を横断した支配的なフィギュアです。そして19世紀、コッホによる結核菌の発見、パスツールによる狂犬病ワクチンの発明により更に強化、促進され、現在に至ります。風邪は薬、予防接種等で徹底的に排除するという考え方です。しかし、氏はそこに危機を唱える。風邪こそ人間の身体の抵抗力を高め、活性化させるチャンスなのだと。薬などの原因療法によるのではなく、自然治癒力で回復させ体を整える。風邪自体を治療行為とみなします。風邪を排除するのではなく包摂すること。それが「風邪を経過する」という独特な表現に集約されています。この映画と共通したテーマがそこから見出せます。

  外部・他者=悪といった短絡的な観点では怪物はいつまでも醜悪な憎むべき敵でしょう。このことは、ストリックランドら管理社会がどのようにして怪物と接したかを見れば明らかになります。先ず怪物を捕獲し、隔離し檻に閉じ込めます。暫く観察し、最後には生体解剖する。このように対象に一切触れることなく、遠隔から眺め、分析することによって「理解」したとする「冷たい」認識によって貫かれています。彼らは、自分の目で対象を見ようとしません。彼らは他者を、偏見で曇らされたイメージによってしか捉えることができない。そして怯懦から他者に直接触れる事を忌避します。それだけでなく、世間に流布されているイメージでしか対象を捉えられないのにも関わらず、彼らは自分たちが世間知に長けた者のように話します。未知のものを既知のものの如く語り、過剰なものを窮屈な型に嵌め、分類しようとするのです。それは、彼らが他者と直に接することにより、自分が築き上げた「自尊心」という名の砂上の楼閣が崩されるのを何よりも恐れるからです。
  だから、彼らのような人々は外部・他者を「経験」することはできません。ただ「要約」するのです。
  それに対して、イライザたちは怪物に近づき触れ合い、言葉・言語の障壁をものともせず、意思の疎通を図ります。それが相手に伝わるかどうかに関わらず果敢に繰り返すのです。極言すれば、彼らは「理解」などしようとはしていない。寧ろ理解不能な過剰性に驚き、それ故に引かれあっているように思えます。それは「理解」というよりも共感、共鳴を重視した「熱い」認識によって成されます。

 年や経験を重ねることにより、私たちは知識、知恵が増えます。しかし、それ故に偏見に捉われ、外部・他者に対し臆病になっていきます。生命体、組織が真に活性化するには戸惑い、恐怖を克己し、外部・他者と積極的に関係する他ないことを、この映画は私たちに教えてくれます。私はこの映画を見終えて、街に出て知らない人と話がしたくなりました。

 追記 :この作品と同じ年に、類似したテーマと構造を持った作品が日本で作られました。その作品も「シェイプ・オブ・ウォーター」同様にカンヌ映画祭という国際的な映画祭で最高賞を受賞しました。そう、是枝裕和監督の「万引き家族」です。「シェイプ・オブ・ウォーター」と併せて是非観ていただきたい作品です。



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