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同じ未来を見つめる伴走者たちの素顔|vol.8

「このフィールドで自分はやっていくしかない!」

NCL南相馬(福島県・南相馬市)/Next Commons Lab南相馬 パートナー
和田智行さん(株式会社小高ワーカーズベース 代表取締役)

《PROFILE》
Tomoyuki Wada●1977年福島県生まれ。南相馬市小高区(旧小高町)出身。Next Commons Lab南相馬の運営母体である株式会社小高ワーカーズベース代表取締役。2011年、東日本大震災で自宅が警戒区域に指定され、家族とともに会津若松市に避難。同市に新設されたインキュベーションセンター勤務を経て、2014年にコワーキングスペース「小高ワーカーズベース」事業を開始。その後、震災後では小高区初となる食堂「おだかのひるごはん」(2016年3月閉店)や仮設スーパー「東町エンガワ商店」(2018年12月閉店)、ガラスアクセサリー工房「HARIOランプワークファクトリー小高」をオープンするなど、住民帰還の呼び水となる事業の創出に取り組む。2019年1月には、若手起業家の拠点となる「小高パイオニアヴィレッジ」を開所する。

無人になった街を再生するパイオニア的存在

2018年12月、南相馬市小高区本町に若手起業家たちの拠点となる新施設「小高パイオニアヴィレッジ」が完成しました。その中心にいるのが、東日本大震災以後、まさにパイオニア的な存在として、南相馬の街を再生する事業を次々と手がけてきた和田智行さんです。

彼が代表を務める株式会社小高ワーカーズベースは、Next Commons Lab南相馬のパートナー企業であり、事務局の管理運営を受託しています。南相馬の課題を解決するプロジェクト全体を俯瞰して見ている人物であり、新しいまちづくりのキーパーソンといっても過言ではありません。

近隣住民への初披露となる小高パイオニアヴィレッジの内覧会を開催した直後、この取材へと駆けつけてくれた和田さん。感触をうかがうと、「かなり人の出入りもひっきりなしで、近所の方々もたくさんきてくれました」と満面の笑みを浮かべ、街の新たなアイコンとなり、コミュニティ再生の場となるべく、手ごたえを感じられたようです。

2011年3月、東日本大震災による福島第一原発の事故にともない、南相馬市民約7万人のうち6万人ほどが避難したといいます。なかでも、原発から20キロ圏内にある小高区は、1万2842人の住民全員が避難を強いられました。一部の帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたのは、2016年7月のこと。避難解除から2年が経った今年8月末時点でも、帰還者はわずか3千人弱。一度は無人になってしまった街を再生するための課題は、震災から7年以上経つ今でも山積しています。

郷土愛にも勝る、新しい社会を構築する面白さ

和田さんは大学卒業後、東京でITベンチャー2社を起業。役員として働きながら、2005年に故郷の南相馬へUターンしました。ようやくライフスタイルが確立されてきた頃に被災し、避難を余儀なくされます。それでも彼はなぜ南相馬に留まり、先陣をきって街の再生につながる事業に取り組んでいったのか?単刀直入に質問をしたところ、「震災がターニングポイントになったのは間違いない」と語りはじめました。

「もともと、ITベンチャーをやっている時から、この仕事を50歳、60歳まで続ける自信はありませんでした。何か方向転換しなきゃいけないなとぼんやり考えているなかで震災が起きたんです。避難区域に住んでいたので、自分も避難をしなくてはならなくなったんですね。それなりに現金を持って逃げたにもかかわらず、食料も手に入らないし、ガソリンも手に入らない。当時子どもが1歳と3歳だったんですけど、避難所もいっぱいで入れない。要はお金を持っていても生きられないという経験を嫌というほどしたんですよね」

震災によって、自分には生きる力が乏しいと痛切に感じたといいます。そんな時に救いとなったのが、お金には換算できない、たくさんの人たちからの助けや励まし。和田さんのなかで価値観が変わりはじめました。

「ITベンチャーをやっている時は、“いかに早く、大きく稼ぐか”みたいな世界観のなかで仕事をしていました。だけど、収入という1つの柱をいくら太くしていっても、ポッキリ折れるということがあるんだとわかって。収入という柱をひたすら太くするよりは、細くてもいろんな柱を持っていたほうが人生安泰だなと、震災の経験から実感したんですよね」

東京にあった自身の会社は震災で影響を受けることなく、以前と何ら変わらず業務は続いていったといいます。

「自分の身に降りかかった課題は、避難者であるとか、家に帰れないとか、子供をどこで育てたらいいのかとか…。先行き不透明ないろんな課題があるわけです。でも、これまでしていたITの仕事をいくら頑張ったところで、その解決には1ミリも近づかない。そんなところに嫌気がさして、務めていた2社の会社役員を辞めることにしました」

これが、和田さんが南相馬での起業を考えるスタート地点となりました。

「じゃあ、どんな仕事をしていこうかとなった時に、自分の身に降りかかった課題の解決に直結する事業がしたいというのは最初に考えたことなんです。当時はまだ避難区域だったけれども、この先、自宅に戻れるなら戻ろうと思った時に、自分の住む地域をみたら、課題がいっぱいあったんですね。課題ってビジネスのネタじゃないですか」

ITベンチャーでの経験上、ビジネスチャンスを見つけるのは大変なこと。それを見つけ出して、いざカタチにしたとしても、短いサイクルで終わってしまう事業も多く、難しさを痛感していたといいます。

「地元には課題がたくさんあるのに、誰もそれをやりたがらない。それであれば、自分は起業経験もありますし、課題解決ビジネスを地元住民が先頭に立って見出していくというのは、当然の流れ。自分がやるしかない。そんな使命感からはじまりました」

地元への思いが強いのかと問われると、それは微妙に違うようです。

「住民がいなくなったゼロベースから、新しい街が作れるというチャンスは恐らく人生で二度とありません。もしかすると日本の歴史上でも、この先ないかもしれないですよね。自分が30代で、震災前の生き方に対してなんとなく疑問を持っていたタイミングでこういったチャンスに巡りあったのは、『このフィールドで自分はやっていくしかない!』ということなのかなと。新しい社会を自分が構築できるという面白さのほうが、郷土愛みたいなものよりは圧倒的に強かったんですよね」

次々と課題解決ビジネスを立ち上げることに

和田さんが自宅へ戻ったのは、2017年3月のこと。それまでは、避難先の会津若松市から車で2時間半ほどかけて小高まで通っていたんだそうです。2014年5月に避難区域初となるコワーキングスペース「小高ワーカーズベース」を立ち上げたものの、当初は利用者が少なく、誰とも会わない日もあったほど。人けのない真っ暗な街にポツンと灯りをつけているような状態だったといいます。

「自分の人生をかけて事業をはじめたのに、やっぱり不安になるじゃないですか。いろんなビジネスを生み出そうと考えていたので、忙しくはしていたんですけど、今後、誰かフォロワーというか自分に共感して、ここで起業しようという人は出てくるんだろうか…と。自信が揺らぐこともありましたね」

2014年12月には、震災後では小高区初となる「おだかのひるごはん」という食堂を立ち上げました。

「誰もやる人がいなくて、お店が1軒もない。自分たちがご飯を食べられなくて、困っていたという理由もありました。人が住んでいない街に、復旧工事や除染作業などで働く人が6千人もいたんですよ。そんな状況はむしろビジネスチャンスだと思って、食堂をはじめたわけです」

この食堂で働いていたのは、近隣で避難生活を送っていた60代の地元のお母さんたち。明るく働く彼女たちに、訪れる人たちも元気をもらっていたんだそうです。

「避難先ではみんな肩身のせまい思いをして暮らしているというか。住み慣れない街で、居場所がない感じで生きていましたよね。それがこの食堂に来ると誰もが同じ条件で話せるので。コミュニティが再生していくような場所になっていたのかなと思います」

おだかのひるごはんがメディアに取り上げられるようになり、その反響もあって南相馬市から業務仮設スーパーの運営を委託されことに。2015年9月、「東町エンガワ商店」をオープンしたあたりから少しずつ流れも変わり、小高で起業してからずっと抱えていた孤独感のような思いは薄れていったといいます。

続いて2015年11月には、ワーカーズベース内に「HARIOランプワークファクトリー小高」の工房を設置し、ガラスアクセサリーの製造・販売事業をスタートしました。

「避難解除後に戻ろうとしているのは、年配の人たちがほとんど。今後どんな街にしたいかといったワークショップをすると、高齢者の人が心地よく住めるような話ばかりで。若い人はこんな街には帰ってこないだろうなと思ってしまうわけですよ。開き直って、『お年寄りの楽園にしよう!』みたいに言いだす人もいましたから」

若い世代が戻りたくなるような取り組みが必要だと、危機感を抱いていたといいます。

「辿りついたひとつの結論が、若者たちが『この仕事やってみたい!』と思えるような仕事を作るということだったんですよね。今までこの地域になかったような仕事。内容はもちろんですけど、働き方もですね。そんなことを考えていた時に、HARIOランプワークファクトリーでガラス職人をしている人と出会いまして。話をうかがうなかで、僕がイメージしていたような魅力的な仕事に、これはできるなと思ったんです」

和田さんは、さっそく東京にあるHARIOランプワークファクトリーと交渉を進め、ライセンス契約締結を実現させました。この仕事は、成果報酬制のため、勤務時間や日数は自由。自分の裁量しだいで、ライフスタイルにあわせて働けるのが魅力です。和田さんは、小さな子どものいるお母さんが働ける場としても可能性を感じたんだとか。

さらに最近では、南相馬市原町区に2018年10月にオープンした、マチ・ヒト・シゴトの結び場「NARU」の管理運営を市から委託されることに。ワーキングスペースだけでなく、キッズスペースやカフェスペースも併設。子育てや親の介護でなかなか外へ働きに出られない人たちに、時間や場所にとらわれない多様な働き方を提案する場を用意しています。女性にとっても暮らしやすいまちづくりが着々と進められているようです。

コミュニティを再構築する新たな拠点が誕生

冒頭にも出てきた、小高パイオニアヴィレッジ。2019年1月20日にオープンしてからは、どのような役割を担っていくのでしょうか?

「避難区域だった場所で新たに事業をはじめるというのは、一般の人たちにしてみたら現実的ではないわけですよ。いろんな創業プログラムや補助金はあるんですけど、いくらそんなものを提供しても、やはりなかなか創業しないですよ。仮に創業しようにも、物件がどんどん解体されている現状で、事務所として借りられる物件もほとんどない。いま何が必要なのかと考えたときに、同じような志を持って、ここで事業をはじめようとする仲間、つまりコミュニティですよね」

コミュニティを作っていくためには空間を共にするハードが必要だと思い、コワーキングスペースをはじめたといいます。小高パイオニアヴィレッジのデザインコンセプトは、「境界のあいまいな建築」。予測不可能な未来に対して、用途を変更しながら柔軟に対応できる施設を想定しています。

「まず、パイオニアヴィレッジには、これまで以上にコワーキングスペースを拡大していくという目的があります。また、簡易宿所を併設しています。移住して起業するのはハードルが高いけれど、ニ拠点生活しながら副業的にここで事業をやるとか、僕らみたいな地元の事業者や、NCLでこれから起業するメンバーたちのプロジェクトにプロボノとして関わりたいという人たちが滞在できるので、手伝いに来てもらいやすくなる狙いもありますね」

小高パイオニアヴィレッジができたことによって、起業への最初の一歩が踏み出しやすくなったというわけです。

「ここへ行けば、自分のやりたいことをカタチにできるかもしれないと思ってもらえるかどうかが重要かなと。このコミュニティに自分も入りたいと感じてもらえるような動きを生み出すための拠点と考えています」

100の課題から100のビジネスを創出

和田さんがNCLとの接点を持ったのは、今から2年半ほど前。南相馬の地域課題を解決するアイデアソンで、NCLファウンダーの林さんと出会い、NCLの構想に興味を持ったんだそう。時を同じくして、当時の副市長から、小高区の復興のために地域おこし協力隊制度を活用できないかと相談を受けていた彼が、NCLと南相馬市を結びつけました。

「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」というミッションを掲げている和田さん。現在、NCL南相馬で進行中、もしくは準備中のプロジェクトの種は10件近くにのぼります。

「辞めたものも含めて、今までやってきたビジネスをこないだ数えてみたんですけど、15くらいだったと思います。でも、100すべてをわれわれ自身でやろうとしているわけではありません (笑)。フォロワーを含め、みんなでやっていくつもりですから。なので、NCLのプロジェクトをやることによって、一気に増えますよね」

現在、プロジェクトの多くがラボメンバーを募集中。悲観的になるのではなく、プラス思考で見てみれば、南相馬にはビジネスチャンスがたくさん転がっているといいます。和田さんがラボメンバーに期待することをうかがってみました。

「一般的な価値観にとらわれるのではなく、僕たちのように、ゼロから新しい街が作れることや、プレイヤーが少ないことを魅力だと感じられるかどうかが大切で。ここには、必要なものはたくさんあるのに何もないような状況なので、カタチにするとすごく有難いと思ってもらえる。

ほかの地域とは比べものにならないほど、急激な人口減少と少子高齢化に直面したぶん、みんなすごく危機感をもって何とかしようとしているんですよね。何か新しい事業を生み出していく時には応援してもらえる土壌がある。そういうフィールドでビジネスをすることを面白いと思ってもらえる人がいいですね」

さらに、「ゼロイチをやりたいのであれば、絶対に南相馬だと僕は思っている」と続けます。

「われわれが掲げているコンセプトが『予測不能な未来を楽しもう』なんですけど。社会というか、世の中って明日どうなるかわからないので。予測できない未来において、今後どうやって生きていくのかといったら、自分で何かを生み出していったりとか、価値をつくっていったりするチカラがやっぱり必要になるわけですね。そういったチカラを身につけたいのであれば、僕は南相馬しかないと思うんですよね。だから、ゼロイチをやりたい人はぜひ来てください!」

目指すは多様なスモールビジネスが生まれる街

「おだかのひるごはん」や「東町エンガワ商店」は、小高区に新設または再開された店舗が現れたことによって、その仮設的な役割をまっとうし、閉店を迎えました。少しずつとはいえ、住民の帰還や移住が進み、活気を取り戻しつつあるといいます。

2017年4月には、小高区唯一の県立高校である小高産業技術高等学校が開校。「人口約3千人の街に500人の高校生がアドオンしている。そのインパクトは大きくて、高校生が通うようになってから、だいぶ街の雰囲気も変わりましたね」と話す和田さん。元気にあいさつをする若者たちのパワーが活気を後押ししているようです。来月にはこの高校生がパイオニアヴィレッジを利用して、研究報告会を実施することもすでに決まっており、将来的に「地元に残って起業したい!」という人が出てくることに期待感が高まります。

あらゆる余白やのびしろがあるこの地域について、和田さんは「小高に限っての話になってしまうかもしれませんが…」と前置きをしたうえで、自身が思い描く未来像を最後に語ってくれました。

↑南相馬市の広報誌「広報みなみそうま」に掲載された誌面

「何か始めようと思ったらスモールビジネスといいますか、生業といえるような仕事が現実的に一番成り立ちやすいと思っていて。多様なスモールビジネスがボコボコと生まれていって、チェーン店もないし、大型店もないけど、個性的で面白い店や人がたくさんいる。

ここには住まないけれども、ちょっといい時間を過ごしたいときや、休日には小高に遊びに来るような人が増えたらうれしいですね。また、何か事業を立ち上げたい、自己実現したいと思っている人にとっては、とりあえず小高にいってみようとか、パイオニアヴィレッジに行けばいいんじゃないかと思えるような。そういった多様な事業が生まれる土壌がある街になっていけばいいですね」

まるで起業の聖地といわれる米シリコンバレーや、スモールビジネスが盛んなブルックリンのように、小高パイオニアヴィレッジを中心に、新しいビジネス拠点として南相馬が注目される未来がやってくるのではないだろうか。そんな期待にあふれています。

和田さんと話をしていても、悲壮感はまったく感じられず、彼が見つめる先にあるのはワクワクするような新しい社会。まずは初めの一歩として、和田さんをはじめ南相馬で活躍するプレイヤーに会いに、小高パイオニアヴィレッジを訪れてみてはいかがでしょうか?コミュニティの熱量を肌で感じ、志をともにできる仲間と出会えれば、あなたもその一員として新たな1ページを開けるかもしれません。

→募集中のプロジェクトはこちら





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