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ニューヨークの大学院(神学校)寮生活
大学院選び
ニューヨークに来たのは1997年、そしてニューヨークの市立大学を2002年に卒業した。元々、大学教授になるつもりでアメリカに来たのだが、とにかくアメリカは授業料が高い。私立の大学院なら一年で5万ドル、それも20年以上前の金額なので、今はもっと高いはず。物価は二倍から三倍になっている。とにかく、国からの教育ローンで、学費を借りれなければどうしようもなかった。ただ、教育ローンを借りるためにはグリーンカード(永住権)が絶対に必要だった。
私は実は2000にアメリカ人と結婚していたものの、グリーンカードの申請をする前に別居というか、完全に別れていた。まぁ、それはまた別の話なので、どこかで。
ただ、離婚していたわけでもないので、グリーンカードの申請の手続きをして、2004年に正式にグリーンカードが取得できた。これで所謂国からのローンが借りられるので大学選びに入った。
日本にいる時から、アメリカに行って、哲学の教授になるつもりだった。哲学と言っても様々な専門分野があるのだが、私は宗教の哲学に興味があったので、大学での専攻は宗教と哲学というダブル専攻という形をとった。
大学院を選ぶ時、哲学科、宗教学科、神学科という選択肢の中から、私は比較的迷わず、神学科を選ぶことにした。まず、「信じる」とは何かに興味があって、「信者」というものに興味があった。
信じるとはなんだろう?と。
神学校と呼ばれる大学院では、牧師になるために必要な、Master of Divinity (M. Div.)と呼ばれる学位を取りにくる生徒が9割、つまり、私が研究対象としようと思っている「信者」で、1割程度の生徒が、私のように学問として神学を研究しようと考えるMaster of Arts (MA)の生徒だった。もちろん神学校によってその割合は違うとは思う。
アメリカの東部で有名というか、学問的に権威のある神学校は三つ、ハーバード大学の附属の神学校、プリンストン大学の神学校と、ニューヨークにある、ユニオン大学と呼ばれる大学。もちろん、この3つをトップ3とすることに異論のある方も当然いるとは思うが、当時、私が選択肢として考えたのはこの3つ。
私は1997年にニューヨークに来て、その時点で7年ほどニューヨークにいたので、知り合いも多少いるニューヨークを離れる勇気はない、という判断を最終的にした、なので、ユニオン大学というマンハッタンにある大学だけに応募した。
リベラルな神学校
実は、ニューヨークに来るときに、日本から2冊だけ本を持ってきていて、一つが加賀乙彦の「頭医者事始」これは高校生の頃からの私の愛読書、もう一つが、村上春樹の「やがて哀しき外国語」だった。
「やがて哀しき外国語」は村上春樹がプリンストン大学に客員研究員として滞在していた時のエッセイで、そこで描かれるプリンストン大学と東海岸特有の「アカデミア」の雰囲気に憧れたことが理由でそもそもニューヨークを留学先に選んだというのもある。プリンストンはニューヨークで電車で2時間ほどだったと記憶しているが、それでも、ニューヨークから遥か遠いような気持ちがして応募する勇気もなかった。それについては今でも少し後悔してるところもある。ただ、神学校でも、保守的な学校やリベラルな校風などいろいろあって、プリンストンは保守、ユニオンはリベラルと聞いていたのもプリンストンに応募するのを躊躇った理由でもあった。
大学に受かるかどうかについてはなぜか不安はまるでなく、絶対に受かるという自信があり、そのまま受かって、次の年、2005年9月からの入学が決まった。
どの神学校でもそうなのかもしれないが、ユニオンでは基本的にほとんどの学生が寮に入る。新学期は9月の頭からになるが、その10日程度前に寮に入居して、寮生活に慣れ、同級生と仲良くなれるようなオリエンテーションがある。ほとんどの生徒が地方からやってくるので、彼らにはニューヨークそのものが未知の世界になる。
日用品を手に入れるために買い物に行くツアーがあったり、パーティーがあったり、楽しい経験というより、「アメリカ人」との生活にプレッシャーが大きく、オリエンテーションの期間は間違った選択をした、と毎晩泣いていたのを覚えている。
イベントの中に学長とのランチというのがあって、そこでは毎日十人程度のグループが学長を囲んで会食をしながら自己紹介をし合う。実はそこで私以外のほぼ全員がsocial justice(社会正義)のためにこの学校を選んだ、という話をした。
正直、意味がわからず、パニックになった私は、寮に引っ越してきた夜に大きなゴキブリを部屋で見つけて寝られなかった、というどうしようもない話を「わざと」した。その時点で私は「要注意人物」となってしまって、どの教授からも「あー、君が噂の」という態度で接しられることになる。
実はその学校がリベラルと言われるのには、宗教では比較的受け入れられないゲイを受け入れることで有名で、神学校では有数のゲイコミュニティのある大学院だったのだ。それはもちろん構わないし、素晴らしいことではあるけれども、神学校という場所は俗世と少し距離を置いていて、どちらかと言うと、修道院のようなイメージがあった私は非常に落胆し戸惑った。
修行僧のような生活で、どちらかと言うと、「自分と向き合って真理の追求をする」ための宗教の哲学を学ぶ場所であったはずのに、実はそれとは真逆の、非常に「政治的」にアクティブなグループの生徒が集う場所だと知った。これでは「普通の」大学院よりタチが悪い、と、自分の中の怒りがしばらく収まらず、納得のいかない態度が端々に出てしまうことになって、早々に大学側からのブラックリスト入りをすることになった。
寮生活
寮は一人一部屋、キッチンとバスルームは共用で、リベラルな校風そのもので、バスルームも男女の区別がなかった。
共同キッチンで料理をするのも最初の数ヶ月は無理だったし、トイレも、誰かが入っている時は常に避けていた。シャワーの隣のブースに同級生の男の子が入っていて、壁越しに挨拶したりするのは特に気にならなかったが、慣れるまで時間はかかった。
ただ、私は、後に同じ寮の生徒のためにお菓子をほぼ毎晩作ったり、パーティー用に二十人ぐらいの料理を一人で作るようになる。
寮になっていた建物は1800年代にロックフェラーが建てた重厚なクラシックな建物で、寮という形になっていなければ、大富豪にでもならないと絶対に十人にはなれないようなアパート。社会正義を目指して地方からやってきた生徒はこれがどれくらいブルジョワで特権的なことなのかもきっとわかっていない。彼らはLGBTだけでなく、貧困等、社会的に抑圧された層に向けて働きかける、という目標を抱えながら、どの生徒を見ても、非常に裕福な階級からの上から目線でしか物事を見るグループにしか私には見えず、イライラした。そういう表面的な解決では社会は変わらない、という理由で宗教の哲学を目指し、哲学科ではなく神学校を選んだというのに、「自分たちは他の人よりいい人」、という自己満足だけで生きている人間の集団に入ってしまったと思った。
ただ、少し時間が経つと、全ての生徒が同じベクトルで同じ方向を向いているわけではないことに気づいていく。
寮と学校の建物は地下通路で繋がっていて、表に全く出なくても生活できるようになっていた。ちょうどその頃オンラインで食料品が買えるようになって、私は長い時で、1ヶ月半、外に一歩も出ないような生活を送る時もあった。
授業
授業は厳しかった。7年もアメリカに住んでいたとはいえ、その間、日本人の元夫と住んでいて(これはまた別のお話)、英語が喋れるとは言い難かった。他の生徒が教科書を読むスピードの多分何十分の1で、それでも理解できたかといえば多分できていなかったんだと思う。
聖書のクラスもあって、それは、最初に聖書の知識でクラス分けされることがわかっていたので、入学するまでの数ヶ月間、新旧約聖書を読んで勉強していた。その結果、牧師コースの生徒より上のクラスに入ることができた。別に上のクラスに入りたかったわけではない。ただ、私以外ほぼ全員がクリスチャンの学校に入るのにある程度の”常識”がないとまるっきり会話が成立しないのではないかという恐怖があった。
神学校などという場所は、宗教と無縁もしくは、宗教が少しカルトで恐ろしい集団と思っている外野からすると恐ろしい場所なのだと思う。ただ、子供の頃から教会で育ち、家族も全員クリスチャンである同級生にはその感覚はわからないだろうなと感じた。
私は彼らとは真逆、左寄りの父親、共産党員として何度も捕まった祖父、のような家庭で育ったのもあって、宗教がいかに恐ろしくインチキで人間のことを洗脳するだけのツールであるかという話を聞いていて、神学校にいる種類の人間と180度真逆の世界しか経験してこなかった。だからこそ、「悪の世界」である神学校で「信者」に就いて学びたかったというのは大きかった。ちなみに、両親は最後まで私が「洗脳」されてしまったので、インチキな壺か何かを売りつけるような人間になったのではないかと本気で心配していた。
早々にブラックリストに載ってしまった「種類の違う」私のことを教授陣も学校側も少し警戒していたように思う。私はもちろんクリスチャンでもなかったし、学生の数も一学年多分五十人ぐらいで、しかも一緒に住んでいる、そんな中、反逆分子は腐ったみかんとして学校全体の雰囲気を壊しかねない。私にはそんなつもりは全くなかったとはいえ、表面的「いい人」集団が牧師になる資格をとりに来ているだけのアカデミアに不満がなかったわけではない。
ただ、すぐに何人かの教授、特に宗教の哲学を教える教授には「外様」の私の持ち込む考え方を面白がってもらえるようになった。
大学院にはその分野の権威、スター教授もいて、入って早々、その教授の本を読んで分析するというペーパー(日本語ではレポートというのかもしれないが、ペーパーで統一します)を提出すると、そのスター教授が興奮した様子で私に「私に関する文献の中のトップ5に入る」と言われたことがあった。それを私が最初に仲良くなった同級生、大学を卒業したてで22歳の、多分、学年一聡明な男の子に言うと「そんなことあるわけない」と一蹴されてしまった。あとで、わかったのは、その教授はアジア人の女性と交際していたことがあって、「アジア好き」と言う評判で、それが理由だろうと思われていたらしい。
そのスター教授に教わりたくて、この大学院を目指す生徒も多いと言うのも後から知って、毎年クラスを教えるわけでないその教授のクラスに入れたことだけでもラッキーだったらしいのもわかった。しかも2年目にはその先生が選んだ十人ぐらいのゼミのようなクラスにも面接なしで入れてもらえることが決まっていた。ただ、諸事情でそのクラスに入れなくなったので、実は特別にその先生との個人授業がしてもらえることになった。私がいた4年間で、私以外にそんな特権をもらえた生徒を結局見ることはなかったので今思ってもすごいことだったのだと思う。もちろん私より40歳ぐらい上のおじいちゃんスター教授に迫られた、みたいなことは一度もなかった。
コロンビア大学
ユニオン大学院はコロンビア大学のすぐ隣で、実はユニオン大学院の他に、ユダヤ系の神学校、音楽学校、バーナードカレッジといくつかの大学が並んでいる。その当時、ITの施設に関してはコロンビア大学のものを使っていて、emailは近隣の大学はみんなcolumbia.eduを使っていたのもあって、就職活動をするのに、コロンビアの学生のフリをする生徒もいた。
私はアパートを探すときに、このcolumbia.eduを作って管理会社に連絡を「わざと」とっていて、管理会社側に私がコロンビア大学の卒業生だと思われるようにしたのはある。多分、そのおかげで、卒業直後、正社員の仕事についていなかったにも関わらずブロンクスのアパートに入る契約ができた。
ちなみに、当時、コロンビア大学には宇多田ヒカルさんがいらして、facebookの初期、大学生しかアカウントが取れない時で、コロンビア大学の学生からの友達申請を全てOKしていた宇多田さんと、columbia.eduのemailを持っていた私はfacebookで繋がっていた。だからと言ってもちろんそれ以外なんの繋がりもなく、私はすぐにfacebookをやめてしまった。
大学院3年目には大統領選挙があって、オバマ大統領が黒人で初めて大統領として選出され、コロンビアの卒業生というのもあって、当選の夜の興奮した街の様子は忘れられない。まさに歴史的瞬間だった。私は当時はまだアメリカ国籍を持っておらず、同級生から投票に行こうと誘われたのに、私は行けない、と言わなくてはならないのが辛かった。
大学院生活の細かい出来事は山ほどある。私は40歳で通い始めて、ほとんどの生徒が年下、で、若い男の子を好きになって振られて、も何回か繰り返して、修士課程を2つ終えて、MAとSTMという二つの学位を終えた段階で博士課程に行く学力無しと諦めてユニオン大学院にパートタイムを経て、正社員として就職することになる。
大学院にいる間に入院も2回ほどして、大きな手術も3回した。一回の入院の請求書が20万ドル(3000万円)だったり、もちろん保険に入っていたので現金で払ったのは最終的に10万円のみだったが、、とにかく「濃い」4年間を過ごした。
細かいエピソードはおいおい、、、