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「ガラスのうさぎ」著者 “最後の講演”

年々戦争を知る世代の方々が減っている中、
読み継がれている一冊の本があります。
「ガラスのうさぎ」
子どもの頃に読んだことがあるという方も
多いのではないでしょうか。
著者は、高木敏子さん(87)。
語り部として全国を回ってきた高木さんの
最後の講演を取材しました。



作家、高木敏子さん。
87歳の誕生日を迎えたこの日訪れたのは、
都内にある中高一貫の女子校です。


生徒に向けて語りかけます。



高木さんは
自らの体験を1冊の本にまとめました。


1977年に出版された「ガラスのうさぎ」

74年前の3月10日。
高木さんは、
東京大空襲で母親と妹2人を亡くしました。

自宅の焼け跡から見つかったのは、
ガラス製のうさぎ。
高熱で、ぐにゃりと溶けていました。


江戸切子の職人だった父親がつくった
ガラス細工でした。
うさぎを手に、疎開先へ向かいます。



神奈川県・二宮町。
駅前には、
高木さんをモデルにした像が建てられています。


ここ二宮は、
高木さんにとって忘れられない街です。


これは、二宮駅近くを走る列車へむけた
アメリカ軍の機銃掃射の映像です。

駅のホームには、
そのときの銃弾の痕が
74年経った今も残されています。

こうした攻撃は幾度となく町を襲いました。

終戦のわずか10日前、
8月5日も
アメリカ軍がやってきました。


「機銃掃射だっ!」
「「ふせろっ!」と誰かが叫んだ」


『 「お父さん、お父さん、どうしたの」と
 父の肩をゆすった。
 でも父の大きな体は、びくっとも動かない。』

当時12歳。
目の前で父親を亡くしたのです。


「お父さん!!って。ござの編んだみたいなやつ。紫色に顔がなって、父が目が開いたまんまで死んでいたの。」

戦争で、
父、母、妹2人を亡くした高木さんにとって、
最近信じられない国会議員の発言がありました。


生徒900人を前に、
1時間かけて自らの体験を語り終えました。



講演を聴いた生徒たちの感想文です。


「命を尽くして語る方々も
 どんどん少なくなっているということが
 こんなにも恐ろしいとは知らなかった」


高木さんは、
目や口が渇き、唾液が出にくくなる難病を抱え、
ここ数年、入退院を繰り返しています。

転倒して、太ももを骨折。
最近は、車いすで移動しています。

今月6日、
父親を亡くした二宮町へと向かいました。

これまで全国各地をまわり
1300回以上の講演を行ってきましたが、
「今回の二宮での講演を最後にしよう」
と決めています。

疎開中の1年だけ過ごした二宮。
父親を亡くし、
ひとりぼっちになった高木さんを
助けてくれたのは、
同級生や町のひとたちでした。


毎年開かれている「平和と友情のつどい」
高木さんが訪れるのは8年ぶりです。


「あの二宮駅の天井からひゅーっと下りてきて。飛行機が。ババババーンと撃ったんです。(父親の)左のここから入った弾が、火葬したらちょうど人差し指くらいの弾が出てきました。」

「戦争」に負け、
日本は「もう戦争はしない」
憲法で決めました。

「平和な日々を守りたい」
そう願って高木さんは講演を続けてきました。


「お話をすることも病院から止められているんですけど、一番最後はやっぱり二宮だなと決めていたもんですから、今日で全国まわるのを終わりにします。どうもありがとうございました。



「ガラスのうさぎ」を題材とした曲。
講演のお礼にと、
子どもたちが歌ってくれました。


動画版はこちらからご覧いただけます ↓
https://www.youtube.com/watch?v=8X-1QuRsHfY