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令和の無職。一生残す傷と忘れない痛み。(part1)

平成から令和へ

どーもー。今回は珍しく本音を書かせていただきます。

今年は平成から令和という時代に移り変わりました。時代の名前だけでなく、日本全体が転換期を迎えた年でした。そして、私としても大きく意味のある一年でもありました。本来なら「成功体験」とか「こうやって困難を乗り越えた」とかを語るべきなのでしょうが、そんなに上向き前向きになれる一年では無かったということを先に結論として述べておきましょう。

大学生から既卒無職へ

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私は3月の晴天の下、パシフィッコ横浜で大学の卒業式に出席しました。ゼミの仲間と担当教員の先生と一緒に学位を持って集合写真を撮りました。まぁまぁ真面目に単位を取ってきた私は、三年の後期にはほとんどの単位を取り終えて、四年生時にはゼミだけを受けに行くようになっていました。

ゼミ長を務めながらみんなで「アルプスの少女ハイジの新旧翻訳比較」という共同研究もやりました。卒論も自分の中では満足のいくテーマで書ききることができました。さらにありがたいことに、次年度の大学パンフレットのグラビアなんかも任せていただけたりもしました。結構、順風満帆でした。

正直ここまでは、自分の背中から前へ風が吹いているのを感じていました。しかし、今考えてみればそれは幻でした。「風に任せていけばお宝が見つかるだろう!」と、井の中の蛙が地図も持たずに泥舟で大海に出発しました。
私はこの時点で就職先どころか、就活すら全くしていませんでした。

東京から京都へ

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6月初夏、私は「自分の内側を見つめる」というわけのわからない供述をしながら、所持金1万で京都の禅寺に4日間修行に篭りました。もちろんまだ就活はしていません。この修行も結論から述べると「足が辛かっただけ」です。そもそも、そんな短い期間で自分を見つめ直せていたらこの時点で就活ちゃんとやってるはずです。

さらにこの時期は、ちょうど調子に乗ってしまうような「小さな成功体験」が色々と重なって、「なんか俺すごいことできてるんじゃないか?」みたいな、結果も出ていないのに過程で満足している状況が長く続きました。

そして、満を持して私は一生忘れられない敗北の夏に突入します。井の中の蛙が初めて大海の厳しさを知るのです。

希望から焦燥へ

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少しずつ根拠のない自信が積み重なり、希望に満ち溢れていた私は、1Dayインターンやプログラミングスクールを通して知り合ったIT業界の人たちに多くのチャンスをもらっていました。そして「わかった気になっていた私」は満を持して長期のサマーインターンの面接を10社程申し込んで受けてみました。結果は全て不採用でした。

最初は「学歴」とか「既卒無職」のカタログスペックのせいにしました。自分の実力不足を劣等感に変えました。そして、本当に多くの人たちの助けや思いやりで自分が支えられていたことも忘れて、「他人や社会が、自分に向けている視線や、張っているレッテルが悪いせいだ」と責任転嫁することもありました。本当に何様のつもりだったのでしょうか。

たくさんもらっていたチャンスやアドバイスも棒に振って、一番最後の面接の結果が不合格になった時点で自暴自棄になっていました。周りには「将来は起業したい」「今は無職だけど頑張れている」と、見栄を張っていました。自分の付け焼き刃の技術や、齧っただけの知識は、大海の「普通」の波にすら通用しなかったのです。私は初めて自分の無知と無力を実感しました。

現実から逃避へ

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8月の中旬になる頃には、なんの成果も上げられずにサマーインターンや一般の面接の募集もなくなっていきました。この時期から無駄に気合いを入れて、友達と旅行や遊びに出かけることが増えていきました。短期バイトをたくさん入れて、1日や2日でその蓄えを全部つかう。そんな刹那的な快楽に溺れていきました

この時は周りに虚勢を張っていたせいで、本音を話せる人や、真剣な相談をできる人を自分から遠ざけてしまっていました。心配して声をかけてくれた人にも「大丈夫っすよー笑」と自分にも他人にも嘘をついていました。実際にその人たちに会ったら嘘をつき続ける自信がなかったからです。

一学年下の後輩たちも進路を続々と決め、同世代はバリバリ仕事で活躍し始めてきている。私はそんな彼らと自分のギャップにも劣等感を抱き、勝手に周りの味方を遠ざけた挙句、だんだん自分を傷つける敵だと錯覚し始めていきました。そして私は独りになっていきました

誰も起きていない真夜中に、バイトかゲームをして、家族が朝早く仕事の準備をするために起きてきたら寝る。家族がいる間は目的もなく外に遊びに行くか、自分の部屋から出ない。そうして私は自傷的な日々を過ごすことで、自分を悲劇の主人公のように仕立て上げていきました。自ら蜘蛛の糸を切って、無間地獄に落ちていきました。

引きこもりNEET(ガチ)

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今年の9〜10月のスケジュールです。ほとんどがバイトと遊びの予定です。空白は文字通り「何もない」日です。8月下旬から泣きつくように大学院の受験を免罪符代わりに受けていましたが、付け焼き刃で受かるところではありません。突貫工事で作った研究計画書と志望動機は一次の書類審査で落とされてしまいました。当然の結果でした。

自分が唯一「好きで得意」と言える日本語学の分野も、生きる言い訳に使ってしまうほど落ちぶれていました。また、この時期から睡眠と食事の不摂生(一回2時間以上寝れない・食事も1日に過食一回)が続きました。そしてついに、文字通り人間として「壊れた」瞬間が来ました。

九月末、徹夜でバイトをしてから草野球に参加し、帰宅後にリビングの机に座ったまま具合が悪くなって病院に行きました。”自律神経失調症” 1歩手前でした。私は倒れてからバイトの数も減らして足が遠のくようになりました。自虐ネタで使っていましたが、本当に引きこもりNEETになりました。

全ての痛みは成長痛

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そんな私に光が射す出来事が3回もありました。詳しくは次のpartで書きますが、「何も言わずに気遣う母との四国旅行」と「大切な友人たちとのベトナム旅行」と「中学の友人から来た"とある話"」でした。この3つの出来事が、私の人生と考えを大きく変え、行動と結果に結びついたのです。

私は「周りに敵はいない。味方の方が多い。自分を追い詰めて傷ついていたのは自分自身。」そのことに気づけたのです。こんなに情けなくて嘘まみれでダサい男を見捨てなかった人たちのために、目の前にあるチャンスを確実にモノにしていこうと思えたのです。

私は今でも救われてばかりの人間です。最近有難いことに周りの人たちから賞賛や感謝をされますが、そんな資格はないと心の底から思っています。

それでも、こんな胸を張れない自分を変えたいと、この1年で負った「傷と痛み」が思わせてくれたのです。この傷は簡単に癒したり、時間がなかったことにしてくれるのモノではなく「残し、忘れないための負の遺産」としておきたいのです。

これからの人生は、振り返ればこの傷口を開けて痛みが疼くかもしれません。それでも、あの時死ぬことを許さずに、目を覚ますきっかけとなった痛みに感謝し、証左として残る傷は消したくはないのです。

令和元年は、人生で一番忘れたくない年となりました。今度はその1年で得られた大切なモノと、一生離してはいけないモノについて詳しく書きたいと思います。拙い文になりそうですがしっかり残したいと思います。

読んでくれてありがとうございました。


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