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【特別限定公開:後半】ヴァースノベルとは何か。

やんぐはうす-ヴァースノベル研究会はこの度東京文フリ38:せ-41でヴァースノベル同人誌『改行』を頒布します。
今回はその試し読みとして、そしてヴァースノベルとは何か、という紹介も込めて、同誌収録の編集長東堤翔大 a.k.a 岸田大によるエッセイ「ヴァースノベルとは何か。」の一部を特別限定公開します!

前半はこちら!

以下、後半部分。

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「小説」は「ヴァース・ノベル」だったし、「詩」は「ヴァース・ノベル」だった。

おいおい「なんでもあり」か。あなたはそろそろうんざりしてきているのかもしれない。しかし実際、そうだ。「ヴァース・ノベル」は「なんでもあり」なところもある。

読むのを諦めるのを待ってほしい。僕らはここで文章はやめない。

もちろん、僕らは「なんでもあり」で満足しているわけではない。
そう、残念なことに「なんでもあり」が理想の時代は終わってしまっている。
ここで若干批評とか現代思想を好む人に向けて言葉を使うなら、「ヴァース・ノベル」は「小説」や「詩」の「ポスト・モダン」という状況を引き受けて出発するものだと言っても良い。
「ポスト・モダン」とは、そこに「大きな物語」が見出せないということだ。お望みならゲーデルの不完全性定理を引いてまた矛盾について書いてもいいが、僕らがいま話しているジャンルの問題でいえば、それは「小説」というジャンルも「詩」というジャンルも互いが互いに自立した原理を固有に取り出すことが不可能であるということだ。

もしあなたが美術批評が好きなら、「メディウムの固有性」という論立てで「モダニズム」を領導した「クレメント・グリーンバーグ」から「間メディウム的なポスト・メディウム」の議論を起こした「ロザリンド・クラウス」までの美術批評との並行性をここに見出してもいい。いずれにせよ「ヴァース・ノベル」はそのような事態から出発している。
とはいっても、すれっからしの人からすれば、いまさら「ポスト・モダン」と眉を顰められるかもしれない。あるいは「大きな物語」なんてもう皮相だという人もいるかもしれない。もう、「なんでもいい」じゃ全然時代には対応できないんだよ。
「なんでもいい」とは、言い換えれば「絶対的になにか一つのものじゃなくても別にいい」ということだ、つまり、それは「なにか一つのもの」からの「逃走」だ。

しかし、はっきりと言っておく。「ヴァース・ノベル」は「逃走」はしない。「ヴァース・ノベル」は「逃走」しない。その戦略を説明する。

一つは僕らは別に「ポスト・モダン」を目指すわけではないということ。それはむしろ出発点であるということ。僕らとて「なんでもいい」が理想であり、かつ戦略の時代はとっくに終わりだと承知している。「なんでもいい時代は全てがどうでもいい時代」と誰かが言ったのは今となって本当だ。
だから僕らは「なんでもあり」の時代にそれこそなんでも使って生き延びるためにこそ「どうでもよくないもの」を探す。それが僕らの一つ目の戦略だ。

二つ目、「なんでもいい」時代には、「なんでもいい時代のよくないもの」が現れる、僕らはそれに向き合う。そういう戦略を取る。
「逃走」。この言葉をさっき使ったが、その言葉が華やかしく使われた時代は「逃走」ではなくて、「闘争」という言葉が旧いイデオロギーとして機能しておりだからこそ「逃走」という言葉は大きな意味を持った。
そういう時代があった。「逃走」が一つの時代を作っていたのだ。
僕らはそれを否定しない。けれど、もう僕らは「逃走」を初めて長い時間が経った。その結果「逃走」の戦略はとっくに時代遅れになっている。

今や「逃走」によって解決するものはない。いやむしろ「逃走」の時代に入って、長い時間が経ち「逃走」こそが良くないものを育てきたのだと言える。悪い花に水をやって育てないように花園から逃げ出しても、結局悪い花は育ったのだ。むしろそのデタッチメントこそが花を育てたのだとすらいえる。
そうであるならば、今すべきことは花園から「逃走」することではない。
僕らに必要なのは花園に帰り、その「悪の花」と向き合い、その隣により大きな花を育てることだ。

話を「ヴァース・ノベル」に戻そう。

僕らは当然だが、「小説」も「詩」も大事なものだと考えている。こんなアマチュア同人誌を頼まれもせずに作っているからそれは間違い無いだろう。僕らは「小説」も「詩」も好きだし、それを大事なものだと思っている。僕らは「小説」も「詩」も好きで、そしてそれは生きるうえで必要なものだと思っている。

けれど、それを僕らは僕ら以外に伝えることができない。

僕らにとって「小説」も「詩」も大事なものだけれど、僕らはそれを僕ら以外の関心がない人たちに、他の様々な魅力的なものに関心がある人たちに伝えることができない。

押し付けることはできないからだ。

このことが今の文学の本質的な限界を示している。
例えば、誰でもいいが、ある人に「小説」が、あるいは「詩」が好きなのだと話す。すると、その人は「ふーん、なんかすごいね」と返す。会話はそこで終わりだ。もしくは「なんか難しそう」とか、そういう言葉がそのあとに続く。

「小説」も「詩」ももう特権的なものではとっくにとっくにない。
それはもうそのある人たちにとって「向こう側の世界」のものになっているのだ。

でも「ヴァース・ノベル」なら。

そう、いまだ「小説」でも「詩」でもない「ヴァース・ノベル」なら、まだ訳のわからない未知の場所が確定していないそれなら。

それはまだその人にとって「向こう側の世界」ではない。

なぜなら「ヴァース・ノベル」はまだどこの位置にもないから。

僕らは「小説」も「詩」も好きだ、そこに僕らが信じる大事なものがある。

それを「向こう側の人」に伝えるために、僕らは「ヴァース・ノベル」というものを見つけ出す。僕らは「小説」も「詩」も価値あるものだと思っている。だからその先に行きたい。それは僕らに「小説」や「詩」を繋いできてくれた人もきっとそうしてくれたからだ。決して閉じ籠もらず、未来に向けてなんとか今手元にあったものを僕達に届けようとしてくれたのだ。

これは「詩」のような「小説」のような、でも「詩」でも「小説」でもない何か新しいものだから、もしかしたら好きになれるかもしれないよ、試しに読んでみてよ。そう伝えることができたらいいだろう。

なんなら僕らの「ヴァース・ノベル」探究の果てにそれが「ヴァース・ノベル」と結果的に呼ぶことにならなくてもいい。僕らは未来に繋ぐ新しく見つけることになる新しい何かを今は便宜上「ヴァース・ノベル」と呼んでいるだけなのだ。

これから書く文章はこの未来のために書かれる。

2.‌ 何が詩といえるのか
 では探究を始める。
 「ヴァース・ノベル」への探究としてまず注目したいのが明治から戦争集結までの期間の「詩」の世界では「近代詩」と括られる「詩人」たちの議論だ。「ヴァース・ノベル」は「詩」のような「小説」のような二つのジャンルが関わっている。「詩」と「小説」、言い換えれば「詩」と「散文」の関係を文学において深く考えたのは何よりも「詩人」たちだった。

 まずは北原白秋がものした一つの文章を確認することから始めたい。次の文章は1‌9‌2‌2年に書かれた「民衆詩派」という文学流派に対する有名な批判だ。
 
文章のタイトルは「散文が詩といへるか」という。


この続きは東京文フリ38で!


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