国立劇場おきなわ小劇場 2013年12月28日子達(シーラ)の輝き

国立劇場おきなわ小劇場
2013年12月28日子達(シーラ)の輝き

宮古島の子どもたちと沖縄県立南風原高校生のみなさんが夢ステージ舞台に向けての練習風景とステージ後の感想などを収録したショートフィルムです。ー--

本編1 https://youtu.be/CsPAn9KlWyY-ー--------------------------------


今日気になったインタビュー記事より>>

沖縄への思い、当初は反発や批判も 「島唄」きっかけに現地と交流続ける宮沢和史さん 今伝えたいこと

台湾をめぐる米中の対立が深まる中、石垣島に陸上自衛隊の駐屯地が開設された。沖縄を本土防衛の前線に位置づける日本の姿勢は、78年前の太平洋戦争から全く変わらず、基地増設に反発する現地との溝は開くばかりだ。シンガー・ソングライターの宮沢和史さんは、代表曲「島唄(しまうた)」のヒットをきっかけに沖縄の人々と交流し、現地の声に耳を傾けてきた。ウクライナで戦火が上がる中、「日本人には今こそ、沖縄戦史を学んでほしい」との信念を語る。(津谷治英)

 -代表曲の「島唄」はロングセラーとなりました。沖縄との出合いについて教えてください。

 「アマチュア時代から沖縄の音楽に魅力を感じていたんです。同じ思いのミュージシャンは多いですよね。先日亡くなられた坂本龍一さんもその一人で、アルバム『ビューティー』(1989年)で琉球民謡に急接近しています。私も若い頃に触発され、興味を持つようになりました。悲哀を表現する音階は暗めの短調が一般的です。しかし琉球音階は短調、長調の概念がない。軽快で明るく感じられても、生死にまつわるような重いテーマを扱ったりします。悲しみは短調で表現する、そんな概念を覆されました」

 「その音楽が生まれた世界をもっと知りたいと思って現地を旅し、戦争の傷痕にたくさん触れました。ひめゆり平和祈念資料館では、傷病兵の看護に従事した元ひめゆり学徒隊の女学生で、館長も務められた本村ツルさん(故人)、島袋淑子さんにお会いしました。地上戦の恐怖や多くの仲間を失った経験をうかがいました。私が子どもの頃の教育では、沖縄戦にはほとんど触れなかったから初めて聞く内容が多かった。20歳を過ぎたころでしたが、自分がいかに無知だったかを思い知らされました」

 -沖縄と出合うきっかけは音楽だったのですね。

 「特に民謡です。歌手の我如古(がねこ)より子さんに三線や多くの作品を教えてもらい、のめりこみました。小さな島国ですが、名曲は星の数ほどあり歌い手も多い。題材は先の戦争はもちろん、ヤマト(日本)に支配されてきた歴史や住民を苦しめた人頭税、台風をはじめとする自然災害、飢饉(ききん)や水不足、そして貧しい暮らしなどが多彩に語られている。ウチナーンチュ(沖縄の人)の魂がこもっています。中でも『艦砲(かんぽう)ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー』が心にぐさりときました。太平洋戦争の米軍による艦砲射撃で家族や大切な人が死に、自分だけが生き残ってしまったことを申し訳なく思う。複雑な心境を歌っています」

 「私の『島唄』も表向きは男女の恋愛を描いていますが、沖縄戦の鎮魂歌のつもりで書きました。深い悲しみを伝えるために、いろんな言葉を盛り込みました」

 -確かに「千代にさよなら」「八千代の別れ」など戦史を物語る歌詞が心に響きます。

 「薩摩藩に侵攻され、廃藩置県で日本の支配下に編入され、やがて戦争がくる。戦後は米国の統治下となり、今も基地が残る。『島唄』の歌詞にはウチナーンチュの叫び、あきらめ、慈しみのすべてを盛り込みました。『繰り返す悲しみは』は帝国主義にのみ込まれていく様を、『永遠(とわ)に夕凪(ゆうなぎ)を』は島にとこしえの平和が訪れるようにとの願いを込めています」

 「発売当時はバブル真っ盛りで、そんな時に沖縄の悲しみ、戦史を歌っても売れないだろうと思いました。でもヒットを目指すんじゃなくて、いつかヤマトの人らが理解してくれる時のためのメッセージのつもりで書きました」

 -結果的に多くの人の心をとらえ、沖縄でも支持されました。

 「ヒットするとは思わなかったです。当初は沖縄の一部の人に反発されたんですよ。今は想像できませんが、戦争を経験した高齢者には日本に対する憎しみを抱えている人がいました。ヤマトの若いやつが沖縄を利用しているんじゃないか、という不信感があったのかもしれません。こんなのは島唄じゃないと批判もされました。沖縄のことを思って歌を作っただけに、つらかったです。でも長く現地の人と付き合ううちに、そういった感情が理解できるようになりました。日本に無謀で無計画な地上戦を強いられ、多くの命が奪われた。地元の人らの声に耳を傾けなければと思うようになりました」

 「太平洋戦争は日本人共通の記憶です。広島、長崎の原爆をはじめ、空襲を経験した人も多い。神戸などの都市だけでなく、私の故郷山梨でも被害が大きかった。これに沖縄は地上戦が加わります。見たこともない米軍兵が目の前に現れ、銃口を向けてくる。国は南の島を救う気持ちはなく、日本兵が島民を守ってくれなかった局面もある。この恐怖、悔しさを理解したいと思う。沖縄の痛みは日本の痛み、沖縄の悲しみは日本の悲しみです。戦後の復興、平和は犠牲になった20万柱の上にあると思います」

 -その思いがウチナーグチ(沖縄方言)バージョンのリリースにつながったんですね。エイサーの太鼓を演奏する若者と共演する場面もよく見ます。

 「喜納昌吉(きなしょうきち)さんが『いい歌だ』と評価してくれ、沖縄の言葉を指導してくれました。方言はほとんど分からない頃で、まさかエイサーや地元の芸能グループと共演できるとは、夢にも思わなかった。よく沖縄を知るにはどうすればいいですか、と聞かれることがあります。私は民謡を聞くことを勧めます。それぞれの曲に庶民目線で島国の真の姿が語られています。サンバ、ジャズ、タンゴなど土地に根付く音楽はよく似た特徴があります。私はその後、世界の音楽に関心を持つようになりますが、沖縄民謡との出合いがそのきっかけになりました」

 「2012年から約5年かけて民謡アーカイブ集『唄方~うたかた』を作りました。245曲をCD17枚に収録したんです。島唄の発売から20年がたって、かつて反感を持っていた人たちも私の思いを理解してくれるようになり、ボランティアで協力してくれました。涙が出るほどうれしかったです。沖縄とかかわってきてよかったなと思いました。地元の図書館、学校をはじめ世界中の県人会に送りました。尊敬する坂本龍一さんもニューヨークから聴かせてほしいと言ってくれました」

 -今後、沖縄について何を伝えていきたいですか。

 「やはり戦史です。多くの戦争経験者が亡くなろうとしている今、先人の言葉をしっかり伝えたい。ウクライナで戦火が上がった今こそ、強く思います。世界に『永遠の夕凪』が訪れること、それが願いです」

【みやざわ・かずふみ】1966年山梨県生まれ。明治大卒。89年にバンド「THE B00M」のボーカルでデビュー。世界の音楽に造詣が深く、2014年からソロで活動。代表曲に「風になりたい」など。

〈記者のひとこと〉

 宮沢和史さんは昨年、元ボクサーの具志堅用高さん、映画監督の中江裕司さんら、現地にゆかりの人ら10人との対談をまとめた「沖縄のことを聞かせてください」(双葉社)を出版した。テーマは民謡、言葉、沖縄戦と多岐にわたり、前書きの1行目に「沖縄のことばかり考えて生きてきたような気がする」と書く。根底にある島唄は加藤登紀子さんがカバーするなど、海外のアーティストの心もとらえ、歌われてきた。ジョン・レノンの「イマジン」と同様、世界に平和を訴える。沖縄が、その歌の生まれた地であることを多くの人の記憶にとどめてほしいと思う。沖縄への思い、当初は反発や批判も 「島唄」きっかけに現地と交流続ける宮沢和史さん 今伝えたいこと (msn.com)


わたしの見解>
一口に沖縄といっても、宮古島や離島の歴史と似ているようでまた違うことを内地の人にはあまり知られていない或いは関心すら持たれていないと思う。沖縄民謡といえば、わたしは2011年に宮古島の三線教室の師匠と出会い、以来細々とながら交流させていただく中で、宮古民謡の歌詞の内容を教わるたびに、島の先代たちの心や祈りの神歌などのその奥深さに感銘をうけます。島唄には島人の人生のすべてが子細にわたって歌われていて、それでありながら印象に残るのは、どの歌も三線の音色に合わせてこころ熱いとういう点。特に祈りの心を謡う、神歌は難易度が高い曲目として挙げられていて、島を離れてしまう若者を無念に送り出しながらも、そうした民謡を伝授するため師匠も張り切っておられる。

師匠曰く「宮古島は層が薄い」のだそう。「子どもたちに一生懸命三線民謡を教えても、高校卒業と同時に皆島を離れてしまう。親たちは勉強や部活動参加は応援するが、芸事である三線民謡に集中させることへは消極的であり、そのためやっと芸が自分のものとなった途端に、その子は島から姿を消してしまう。宮古島では子に芸の道を歩ませる親の意欲がなければ、子どもたちの飛躍はほとんど難しい。」

ところで、2013年12月に沖縄国立芸術劇場で行われた「夢ステージ」に、師匠率いる宮古島の子どもたちが出演する舞台が開催された。この舞台のきっかけは、「島の音楽を世界へ」というコンセプトのもと、最終的にはイギリスのカーネギーホールで演奏会を開くという目標があった、と記憶している。
主謀者として、宮古島出身でプロで活動していらっしゃる下地暁さん、下地勇さんの名があった。そして、その情報をネットで知ったわたしが、師匠に是非にオーディションにエントリーしてほしいと頼んだところ、「それでは子どもたちに受けさせましょう」という流れになり、沖縄から審査員として来島された方たちの前で演奏を披露したところ舞台出演が実現した、というわけです。

出演は、沖縄県立南風原高校郷土芸術部の生徒さんたちと宮古島の子どもたちとの合同で行われました。当初、こういった舞台が恒例となることを望まれていましたが、2度目の実現は叶えられませんでした。
本番前に沖縄のむらさき村で行われた南風原高校郷土芸能部の生徒さんとの合同合宿は、宮古島の子どもたちに芸の道への希望をもたらしてくれました。

宮古島の三線民謡や沖縄民謡がのちの世代をはじめ世界に脈々と受け継がれてゆきますようにと願うばかりです。

Emeru

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