ロシア国民楽派の「TOP5」ロシア5人組!・・・ムソルグスキーを中心に
一匹狼、三要素、四天王、五大湖、六地蔵、七福神・・・身の回りにはあるものをいくつかのグループにまとめたものが多くある。
クラシック音楽のなかで良く知られているのは「ドイツ三大B」だ。バッハ、ベートーヴェン、そしてブラームス。ブルックナーは入らないのか!?と思うクラシックファンは多いと思うが、厳密に言えばオーストリア人ということでご容赦いただきたい。
その他にも「フランス六人組」と称される作曲家達がいる。それはオネゲル、ミヨー、プーランク、オーリック、タイユフェール、デュレだ。クラシックファンでもなかなか全員の名前を言える人は少ないだろうか。そのような人は相当の知識をお持ちだと思う。
オネゲル、ミヨー、プーランクはまだしも、残り3人の認知度は前出の3人には劣る。オーリックは映画「ローマの休日」の音楽を作曲したことで知られる人物だ。詩人ジャン・コクトーをして「耳のマリー・ローランサン」と言わしめた紅一点のタイユフェールも数多くの作品を残した。ラヴェルに才能を激賞され、チャップリンとも親交があったことは良く知られている。最も年長のデュレは6人組から早期に離脱した人物である。
日本に目を転じると「3人の会」という作曲家グループが良く知られている。芥川也寸志、黛敏郎、團伊玖磨だ。この存在は広く知られているだろう。設立の経緯のひとつは「自分のオーケストラ作品を発表するのに、3人でオーケストラに依頼することで金銭的負担を減らせる」という理由があったと聞いたことがある。当時から人気の3人だったのでもしかしたらウイットに富んだジョークだったのかもしれない。
そしてもう一つ、クラシック音楽界で良く知られているグループがある。
それは「ロシア5人組」・・・ロシアの音楽がヨーロッパのカーボンコピーから民族主義の高まりとともに自国の風土や文化、伝承に基づいた「自分たちの音楽」を追い求めるようになった時代の作曲家達だ。
ロシアの国民楽派の始祖のひとりが歌劇「ルスランとリュドミュラ」で有名なグリンカである。そのグリンカの次世代に当たる作曲家がロシア5人組を構成している。その5人とは誰なのか?
ロシア音楽の代表的な作曲家と言えばチャイコフスキーだが、彼は「5人組」には含まれていない。これにはちょっとしたエピソードがある。
5人組のリーダー格のバラキレフはチャイコフスキーを高く評価しており、チャイコフスキーが作曲した「ロミオとジュリエット」を賞賛する手紙に「5人が6人になりました!」と5人組への参加をも促す手紙を書いたが、当のチャイコフスキーは5人組とは交流は持ったものの距離を置いていたのだった。「オレ、別にグループ加入しなくてもソロでやってくから!」とスターみたいなことを思っていたとは思わないが、チャイコフスキーとしては5人組の音楽と自分の音楽の方向性は違うものだと感じていたのだろうか。
日本の禅宗寺院には「京都五山」「鎌倉五山」という格付けがある。それぞれ5位まで順位が付けられているが、その上に「別格上位」の寺院がある。それが京都の南禅寺。チャイコフスキーは「ロシア作曲界の南禅寺」ということになるだろう。
それでは5人組の紹介に移ろう。
まずはバラキレフ。5人の中では最年長でリーダー的存在である。現在でも多くの作品が演奏されている。彼だけがいわゆる「音楽の専門教育」を受けた人物だ。指揮者としても活躍した。
そしてボロディンは歌劇「イーゴリ公」や交響詩「中央アジアの草原にて」、「交響曲第2番」など、現在でも広く演奏される人気作品の作曲家である。ボロディンは作曲家という顔のほかに「医師」「化学者」という顔を持ち「ボロディン反応」にその名を残している。
リムスキー=コルサコフも良く知られた作曲家だろう。絶大な人気を誇る「シェヘラザード」や「スペイン奇想曲」などが代表作だ。異国情緒に溢れた作品が多いのは、軍人貴族の家に生まれ、海軍士官として遠洋航海に出ていたことが影響していると言われている。また音楽理論に精通し、独学であったにも関わらずペテルブルク音楽院の教授として迎えられ、「和声法」や「管弦楽法」の著書は現在でも広く知られた良書である。そのため、他のメンバーの作品を編曲したものが多いのも特徴である。
5人組のなかでは恐らく最も知られていないのがキュイだろう。キュイの本業は「軍人」だ。その点に関してはリムスキー=コルサコフも同じだし、ボロディンも軍医であったので広義には軍人といえる。だかキュイはより「軍人」として業績を残している人物だ。軍事作戦における「堡塁(ほうるい)」建築の専門家として、教授職に、最終的には「工兵大将」に昇進した。門弟にはのちに皇帝となるロマノフ家の人物もいた。その激務の余力のなかで精力的に音楽活動をしていたが、音楽評論家として辛辣な批評を多くしていたためロシアの音楽業界内での人望がなく、近年まで作品の全貌が明らかにされなかった「残念な人物」である。
そして最後に残った人物を忘れてはいけない。作風も風貌も異種独特な人物・・・モデスト・ムソルグスキーだ。
彼はロシアの一地方の地主領主の子として生まれた。そのため青年期までは裕福な環境で育ちながら音楽の素養を深めていった。しかしその彼を歴史が翻弄し始める。1861年の「農奴解放令」によりムソルグスキー家の荘園は半減、一転して困窮してしまう。
ムソルグスキーは下級の公務員として働き始めるが、余剰人員の宣告を受けたりと公務員生活は不安定なものだったようである。そのような中で彼は「現実主義(リアリズム)」に傾倒するようになり、それに根付いた作品を作曲するようになる。しかし彼に時代が追いつけなかったのか、作品は批評家の受けが悪く苦痛に追い打ちをかけた。現在ではムソルグスキーの代表的大作オペラ「ボリス・ゴドノフ」も聴衆からは支持されたが批評家からは評価されなかったようである。この点を見ても批評家というものは何を聴いてどこを見ているのか・・・と思わずにはいられない。
「ボリス・ゴドノフ」を頂点に彼の人生は転落していく。肉親、知人、友人の死に見舞われ、その苦痛から逃れるために酒に溺れていった。友人達も彼から距離を置き始めますますアルコール依存が顕著になる。かつての風貌とは似ても似つかぬ顔や姿になってしまったムソルグスキーを市内の安酒を提供する酒場でよく見かけたという記録もある。そのような中でも作曲は自身の存在意義を確認する手段であるかのように曲を書き続けた。有名な「禿山の一夜」や「ホヴァンシチナ」などは今でも多く演奏されている。ピアノ組曲「展覧会の絵」もこの頃の作品だ。
そしてついには公務員の職も追われてムソルグスキーは困窮する。友人達の助けもあったが、アルコール依存症が原因の心臓発作により42歳で死去した。その一年後、ロシア皇帝が暗殺され、ロシアは激動の革命期に突入した。
革命前夜の時代を懸命に生きたムソルグスキー、その代表作といえる「展覧会の絵」、その物語は次回のオトの楽園で・・・。
(文・岡田友弘)