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「忘れられた日本人」から考えた誇りと縛り

 最近読んだ本の中で印象深い本の一つが宮本常一『忘れられた日本人』です。戦後、日本各地(特に西日本各地)のいろんな地域を歩き回った宮本常一。訪れた地域の人たちから「これまでの人生」や「地域共同体」、「仲間内での会話のネタ」など様々なテーマについて話を聞いた記録です。

「土佐源氏」の衝撃

 本の中でも一番インパクトがあるのが、高知の山間の村、檮原での老人の独白である「土佐源氏」の章。主人公は牛馬の売り買いをする「ばくろう」の男性。今の基準からは考えられない、地域コミュニティでの奔放な性生活や映画のワンシーンになりそうな「ええとこ」の奥様との不倫話など、「ほんまかいな」と思うような話が続きます(実際、この人物が実在するかどうかは疑問符がついているそうです)。

寄合のはなし

 この本の前半では、長崎・対馬での地区の寄合(よりあい)の話が書かれています。筆者が記録のため、村の古文書を借りたいと申し出たとき、地区の寄合で図ることになりました。しかし、寄合は全会一致が原則で、しかも、議題がいくつも入り混じってくるものだから、結論がなかなか出ず、筆者がずいぶん待たされる羽目になったと書かれています。
 こうした「寄合」。40代の私は農村部で育ったため、なじみのある光景です。地区の集会場、または「釈迦堂」と呼ばれるお堂に地区の人たちが集まり、「祭り(獅子舞)」はどうする?とか、子ども会(小学生の子どもたちのレクリエーションを実施するための地区の集まりがあった)の会合とか、議論して、全会一致で話を決めていました。
 どうやら、今でも行われているみたいで、農業用水路の掃除はどうするとか、地区の八幡神社への寄付はどうするとか、そんなことを話し合っていると聞いたことがあります。ただ、ほかの農村地域と同様、子どもがめっきりいなくなってしまった…。昔は地区で獅子舞を出していたものの、それも久しく途絶えてしまいました。

コミュニティの結束と監視

 昔に比べ、こうした寄合は機能しなくなっているものと思いますが、今でも役に立っていると思います。例えば、水路の維持清掃などは、地区の人たちが互いに協力しないと成り立たないし(毎回不参加になると、陰で何言われるかわからん)、災害時の安否確認などは迅速に進むし、「共助」という意味では最も基礎的で頼りになるコミュニティなのだと思います。
 一方で、どこの世界にも噂話好きはいるもので、「あの家に知らん車停まってた」とか、「あの家のご主人、〇〇さん家の奥さんにちょっかい出してるみたい」とか、場合によっては根も葉もない話が流布することもしばしば。農村地区への移住者やUターンした人が一番悩むのもこの部分ではないでしょうか。

「祭り」がつなぐ地域の誇り

 私はかつて、大阪・岸和田に転勤族として住んだことがありますが、岸和田といえば「だんじり祭り」。祭りの激しさ、細部までこだわりぬかれただんじりの装飾、だんじりの上で飛び跳ねる祭りの花形・「大工方」などなど、全国に名がとどろくのもよくわかる気がします。
 たぶん、社会学とか文化人類学的なところで、地域における祭りの機能といった研究はたくさんなされているのだろうけど、岸和田で経験した祭りと地域の関係を示すエピソードを3つほど。

1.祭りは9月ごろなのだが、6月ごろには祭りに備えて、同じ地区の中高生と思しき若者たちが、ランニングで体を鍛えている。
2.岸和田の上新電機にだんじりのプラモデルが売っている。
3.地区で開かれる「夏休み親子工作教室」の付随イベントとして、「だんじり曳き方講習会」がある。

 年に1度、準備に準備を重ねたうえで、地域のエネルギーを爆発させる祭りは、高齢者から若者までをまとめる力をもっているし、若者たちが、「かっけえ」と思えるものになっているし、地元の人たちの誇りにつながっているのだと感じました。もちろん、だんじりだけではなく、全国各地の祭りが地域を一つにする役割を持っているのだと思います。
 最近、「地域の祭りをインバウンド客に楽しんでもらい、高付加価値な旅行商品を作る」といった国の方針もありますが、内向きなエネルギーを発散させる場としての祭りを「商品」にするという考え方に同意できない人もいそうな気がします。

だんじり祭りの日は身動きできんほど人が多い

頑張る人たちに「水を差す」雰囲気

 地域内で生涯同じ人たちとずーっと付き合っていくことは結束にもつながりますが、一方で甘えや「出る杭は打つ」ということにもつながるのではないかと思っています。
 冒頭で紹介した宮本の本の中では、「世間師」という言葉で、コミュニティの外の世界を経験した人が地区の発展に大事な役割を果たす、とありました。逆にいうと、内部の人たちでは考え方が凝り固まり、自分たちの基準を外れる人たちをよく思わなくなるのではないか、という気がしています。
 法事とか、地区の会合の後の飲み会で子どもがいると、知らんおっさんが近くに来て、「おい、僕よ(僕は子どもに対する呼びかけ)。ちょっとこれ飲んでみい」とか言って、酒飲まそうとするし、「僕よ、そんなに勉強ばっかりしてもええことないで」みたいな大人はたくさんいた気がします。そんな中で、「自分は自分」などとはなかなか言い出しにくい雰囲気があるような気がします。

忘れられた日本人の行方

 今回は、宮本の「忘れられた日本人」をきっかけに、特に農村部のコミュニティについて考えてみました。こうしたコミュニティは、「迅速な意思決定」とか「ビジネスライクな関係」といった「経済合理性」の対極に位置している気もします。
 今でも、私の実家では、忘れられた日本人に出てくるような地域コミュニティの「残り香」がありますが、農村地域が高齢化し、子どもの数がますます少なくなっていく中、その残り香すらも徐々に消えていっているのではないしょうか。

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