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早熟であることをもてはやす社会であってほしくない。

早熟であることをもてはやす社会であってほしくはないと、私は思います。

「早熟であること」のイメージとして分かりやすいのは、たとえば少し前にテレビニュースのコーナーで「ギフテッド」として取り上げられた5歳程度の幼児でしょうか。
彼はいくつかの難読漢字を修得しており、取材に訪れた番組スタッフに誇らしげにその知識を披露していました。
大変ほほえましい光景ではあるものの、それが「ギフテッド」とされるのは過言のように思います。

上記の件については、あくまでイメージをしやすい掴みとして共有させていただきましたが、私が「もてはやしてほしくない早熟」だと考えているのはもっと別の例です。

私は大学で情報科学を学んでおり、その分野のトレンドを追っているとたくさんの「早熟」を見かけます。小学生でソフトウェア開発、自作PC、競技プログラミング、などなど。

素晴らしいことだとは思います。周りの大人がそれを称賛し、推奨するのも良いと思います。しかし、その称賛が「こんなに若いのに」ありきなのは、どうにも健全ではないように思えます。

まず、プログラミングに限って言えば、習得難易度はさして高くはありません。私を含めて多くの人が、大学入学時に初めてパソコンで「Hello World!」を標準出力しますが、それは「Hello World!」の出力が高校卒業程度の学力を要求しているからではありません。単に、スタートの時期が大学入学後であるだけなのです。その点で、例えば理系なら入学直後に高校数学の延長である線形代数を始めることとは非対称です。

このロジックだと、「過大評価することが良くない」という風な論調になってしまいましたが、私の思いとしては

「早熟であることを褒めるように、多くの人を褒めたい」
「途中経過で称賛を求めないようにしたい」

の2点です。

まず「早熟であることを褒めるように、多くの人を褒めたい」についてです。
先ほどの例、たとえばソフトウェア開発をした小学生が、コンテストを最年少で上位受賞したとします。その際に、もちろんその小学生は称賛されるべきですが、最優秀の受賞者にも同等以上の称賛を与えてほしいと思います。

ソフトウェアを自分で開発し、公開するという一連の行為は誰であっても素晴らしいことです。プロのエンジニアでも、学生でも、幼児でも、高齢者でも。「幼いのにすごい」で終始してしまうのは、受賞者の小学生への敬意も足りていないように思います。

その中で特に小学生がすごいと思える理由があるとするならば、それは未来への期待感かもしれません。「小学生の時点でこんなにすごいのなら、中学、高校と時が経てばもっと素晴らしい結果が出せるのではないか」と。だとすれば、その時に。中学、高校生になってさらに素晴らしい結果を残した時に、また最大限の称賛を贈れば良いのです。

この、「早熟」と「未来への期待感」の関係性が、次の「途中経過で称賛を求めないようにしたい」という思いにつながります。

今までの議論では、「早熟に対する周囲の反応」について話してきましたが、今度は「早熟である人のふるまい」について話します。

「初めて〇〇か月なのに~」「まだ学生なのに~」を枕詞にしたような自慢を見かけることがあります。

ですがそのようにハンディキャップをアピールすることは、しばしば彼らの実際の成果を正しく評価されることから目を逸らす結果となることがあります。たとえば、「まだ学生なのにこのレベル」という言葉が、その人の能力や成果を実際よりも大きく見せてしまうかもしれません。これは、その成果が持つ真の価値を覆い隠し、一時的な驚きや感動に重きを置いてしまうことに繋がります。

このような状況は、早熟な人々にとっても健全な状態ではありません。なぜなら、自分の能力を「年齢や経験の少なさ」という枠で語ることで、彼ら自身が未熟さを強調し、それに依存する姿勢を内面化してしまう可能性があるからです。

到達点の価値にフォーカスして、制約ありきで通過点をアピールしないように心掛けたいです。

本当は「ギフテッドとして特集された幼児へのSNSのリアクションへの思い」や、「SNSによって人が多すぎることが可視化され、自身の到達点の価値をハンディキャップによって脚色せざるを得ないこと」などについても書こうかと考えていたのですが、思いのほか長くなりすぎ、文章も散らかってしまったのでここで締めます。

お付き合いいただきありがとうございました。


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