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【歴史小説】第33話 血入り曼荼羅『ひとへに風の前の塵に同じ・起』
1
将来を嘱望された若武者家盛の死は、大きな衝撃を平家一門に与えた。
訃報を聞きつけた平家の郎党の一人で、家盛の守役平惟綱は、家盛の亡骸と対面し、その場で出家。同じく生まれたときから見守っていた家貞は、悲しみのあまり、食べ物が喉を通らなかった。
もちろん悲しいのは守役や郎党だけではない。
惟綱と同じように、家盛の母宗子も出家して「池禅尼」と名乗った。いつも賑やかな経盛と教盛の2人も、このときはずっと黙っていた。忠盛は一門の棟梁として平静を装っていたが、池禅尼が見ていないところでは、一人池の前で涙を流していた。
家盛の死で一番衝撃を受けたのが、義理の兄清盛だった。
彼にとっては、記憶があるときからずっとそばにいてくれた唯一無二の存在。人よりも劣っているうえ、罪を被った自分でも、兄として慕ってくれる。自分のことを認めてくれる人間を失った。
「若、もう四十九日も終わって、殿からもお許しをもらっているのに、どうして院の元へ出仕しないのですか?」
家貞は心配そうな表情で、清盛に語りかける。
「いいだろ、別に。出仕するもしないも俺の勝手だ」
やけっぱちな口調で清盛は答えた。
「いいでしょう。若が夢見ている次の棟梁の座には、頼盛さま(五郎。元服して名を改めた)が就くことになりますが、それでもいいのですか?」
「誰が棟梁になろうが、俺には関係ない」
清盛は手で追い払うような動作をして、家貞を追い払った。
「もう知りませんからね」
大きな足音を立てながら、家貞は清盛のいる部屋を出る。
2
六波羅の平家屋敷に、久しぶりの来客がやってきた。義朝だ。
「よぉ、清盛、久しぶりだな!」
義朝はうれしそうに清盛に語りかける。
「おう、義朝か。悪い、今はそんな気分じゃないんだ。帰ってくれ」
「どうした? お前、前にあったときよりも暗いぞ。もしかして夏バテにでもなったか?」
義朝は顔を近づけ、清盛に問いかける。
デリカシーのない義朝の態度にキレた清盛は、
「仲の良かった兄弟を亡くしたことのないお前に何がわかるんだよ」
と大きな声で罵った。
「バカ野郎!」
義朝は怒鳴り、清盛の顔を強く蹴りつけた。
清盛は1メートルほど吹き飛び、頬に青紫色のあざができる。
「いきなり何すんだ!」
「さっきから話を聞いていたらどうだ? 今はそんな気分じゃないとか、俺には仲のいい兄弟がいないから俺にはわからないとか。前はどんなときでも、笑顔で接してくれたじゃないか。俺はいじけたお前に会いに来たんじゃない! 帰る!」
義朝は家貞と同じように、大きな足音を立てながら清盛のいる部屋を元を去って行った。
(ハハハ・・・・・・俺は本当にバカ野郎だよ)
青く腫れあがった頬を触って、清盛は笑った。
人が死ぬことなんてありふれたことなのに、なんで自分はここまで落ち込んでいるのだろうか。弟だから、と言われればそれまでだ。が、どの兄弟よりも長い時間を共に過ごした弟だから、その喪失感は何より大きく感じる。
3
「清盛、起きてる?」
ある日の夜、池禅尼は燭台も持たずに清盛のいる部屋へやってきた。
「うん」
「母さん眠れないから朝が来るまで退屈なのよね。よかったら、縁側へ出て少し話さない?」
池禅尼は誘った。
暗闇の中清盛は小さくうなずく。
「そっか、じゃあ行こう」
「うん」
母子は縁側へと向かう。
「この前、義朝が来たんだってね」
池禅尼は清盛の方を向いて、小さく優しい声で清盛に語りかける。
「あぁ」
清盛はうなずく。
「あの子、10年前に父親と縁を切って、東国で修業をしていたそうよ」
「そうなのか」
行方不明になった義朝が何をしていたのかわかって、清盛はホッとした。同時に「東国で修業をしていた」と聞いて、あいつらしいなと思った。
「へぇー」
「その武勇が認められて、院から、仕えないかとお誘いを受けて、郎党を引き連れて都へ戻ってきたのよ」
「そうか──」
このままじゃいけないのはわかってる。でも、心と躰(からだ)が、止まれ、と言うから、なかなか動けない。動かそうとすると、体が鉛になったと錯覚してしまうほど重くなる。
「あ、そうだ」
落ち込んでいる清盛を見かねた池禅尼は、
「清盛。この前屋敷に来た、高野山の西行という若いお坊さんから、『曼荼羅を描いてみないか?』と誘いを受けたの。ずっと外に出てないから気分転換にもなるし、家盛の供養にもなるわよ。どう?」
今日来た高野山の来訪者の話に切り替えた。
「高野山なんて、神仏に弓を引いた俺が行っていい場所なんかじゃない」
清盛は義母の誘いを断った。
池禅尼は首を横に振って言う。
「あなたは悪くない。あのとき、暴れる郎党を必死で止めようとしたんしょう?」
「うん。でも、止められなかった」
「それでも立派じゃないの。清盛は清盛なりに、みんなを守ろうとした。違う?」
池禅尼がそう聞くと清盛は首を縦に振る。
「それでいいじゃない。人にどれだけ誠意を尽くしても、尽くした誰かに理解してもらえないことなんて、生きている限り何度でもあるから。自分を責めるのは、もうおしまい。そして今度、母さんと一緒に行ってみましょう。高野山へ」
「家盛の供養になるのなら……」
絞りきった雑巾から出る水滴ほどの小さな勇気を振り絞り、清盛はうなずいた。これで少し前に進めるきっかけになるのなら、亡き家盛のためになるのなら、と考えて。
4
翌日、清盛と池禅尼は朝早くに六波羅の自宅を出発した。
高野山に女人禁制の掟があるため、山の中に入ることができない母池禅尼とは、目の前にある九度山で別れた。
清盛は壇上伽藍や宝塔があるエリアを抜け、講堂へと向かう。
目の前には石畳で舗装された道があり、それを避けるように杉並木と苔の蒸した風情ある灯篭が林立している。講堂はその道をまっすぐ進んだところにある石段を登った先にあった。
高野山金剛峰寺の講堂の屋根は大きく、柱や梁には彫刻などの装飾はあるが、余計な着色は施されていない。
清盛は講堂の玄関へと入った。
講堂へと入ると、背の高い清盛と同年代ぐらいの、若く爽やかな顔つきをした黒衣の僧侶が出迎えてくれた。
「お前もしかして……」
清盛はこの顔に見覚えがあったので、確認のため聞いてみる。
若い僧侶はうなずいて、
「そうだ、俺だ。佐藤義清だ。久しぶりだな、清盛」
と答えた。
数年ぶりの再会に、清盛は笑みを浮かべた。
「お前、高野山の僧侶になったのか⁉」
「ああ。最近は旅に出てばかりだから、麓にある庵も留守にしがちだがな。まあいい、こんなとこで立ち話もあれだから、中に入ろう」
「おう。それじゃあ、失礼します」
清盛は草履を揃え、講堂の中へと入った。
5
清盛は講堂の一室に案内された。
目の前には、大きな下敷きの上に紙が敷かれている。紙にはまだ色の塗られていない下書き段階の曼荼羅が描かれていた。曼荼羅の脇には、布を被せた絵皿が数十枚置いてあった。
「お前、この前、弟が死んだらしいな」
「あぁ」
清盛はこの前亡くなった弟のことを語った。
小さなころから何でもできて、みんなからも好かれる立派な弟だった。それでも自身の能力を鼻にかけることはなく、正反対の自分のことも兄として慕ってくれた、自慢の弟だった。
「そうか」
西行は、一緒に出家しようと約束したが、急な病に倒れ、約束を果たせないまま旅立った従兄弟憲康のことを思い出した。
従兄弟と兄弟。血の繋がりはあっても、両親の違いだけで区別される存在。清盛と家盛の場合は血の繋がりもない。だが、それがあろうがなかろうが、自分のことを誰よりも理解してくれる家族を失う辛さに変わりはない。
「無駄話はここまでにして、お前の母親から聞いているとは思うが、これからお前には、目の前にある曼荼羅の色塗りをしてもらおう。絵の具は絵に心得がある僧侶がしっかり用意してくれてるから、切れたときに言ってくれ」
「わかった」
清盛は用意された絵筆を手に取り、絵の具をつけて線画の諸仏に色をつけた。
家盛のことを思い出しながら、一つ一つ丁寧に、躍動するモノクロの諸天善神に色をつけていく。
家盛と一緒に川へ行って遊んだこと。
木に登って降りられなくなった家盛を助けようとして木に登ったが、一緒に降りられなくなって家貞に怒られたこと。
剣術の練習で家盛に追い越されたこと。
叔父忠正と鳥辺野で腕試しをしたこと。
一緒に瀬戸内海へ行って、海賊退治に参加したこと。
清盛の結婚を祝ってくれたこと。
忠正に褒められたことをうれしそうに教えてくれたこと。
色を塗っていると、次々と家盛との思い出がフラッシュバックしてくる。
流れ出す大量の涙と格闘しながら、筆に忘れたくない家盛への思い出を一つ一つ込める。
日が暮れようとしているころ。
西行はご飯と副菜、汁ものが器に入った膳を持ってきて、
「清盛、飯持ってきたぞ」
と呼びかけてみたが、聞こえてないかのように、清盛は黙って曼荼羅とにらめっこをしている。
呼びかけて1分ほど経ったときに義清の方を見て、
「わかった。後で食うから置いててくれ」
と言って、再び作業に戻る。
「膳、片付けるぞ」
西行は先ほど持ってきた膳を片付けに、再び清盛のいる講堂へやってきた。
空になった膳を片付けるために、食堂の方へ持っていこうとしたとき、
「うっ……」
と苦しそうな声が聞こえた。
「どうした」
西行は慌てて清盛の方を見る。
清盛は腰に帯びていた短刀を抜き、それで軽く左の手首を切って、赤い絵の具が入った絵皿に入れていたのだ。
自傷行為をする清盛を見た西行は、
「バカ! さっき、切れたら言ってくれ、と言ったろう」
引き離そうとした。そして、続けざまに、
「早く手当を」
と言おうとした。
「待ってくれ!」
清盛は苦しそうな声で語る。
「さっき赤い絵の具が切れてな、それで自分の血をその代わりに使おうと思ったんだ。あと、家盛が俺のことを忘れて欲しくないから」
「お前らしいな」
「痛いから、とりあえず包帯持ってきてもらえると助かる」
西行はため息を一つついて、
「仕方ねぇな」
膳を片付けるついでに包帯を取りに向かうために、講堂を出る。
朝。窓からは朝日が差し込むと同時に、読経の声と香の匂いに混じって鳥のさえずりが聞こえてくる。
勤行と念仏を終えた西行が清盛のいる場所を訊ねてみると、目の前には赤や緑、黒、黄色で彩られた曼荼羅があった。色のついた部分には、諸天善神や菩薩が取り囲み、真ん中の赤い蓮の花の真ん中には、印を組んだ大日如来が正座している。
清盛はその前で左手に包帯を巻き、何もかけずに部屋の片隅でそのまま眠っていた。不眠不休で描き続けていたから、疲れてしまったのだろう。
西行は微笑んで、
「大学寮では寝てばかりだったお前にしちゃあ、やるじゃないか」
着ていた着物を清盛に着せた。
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