継続は力なり 三日目
今日は少し早めの投稿。
世の中は思い通りにいかないことが結構ある。無論、自分自身の事だ。他人が思い通りにいかないのは当然の事だし。
昨日の日記で書いた通り、今日の朝九時、起床時に今日一日のスケジュールを軽く書いてみたのだが、結果としては惨敗。そこまでみっちり詰めたわけでもないのに、お昼ご飯などでずれ込んでしまい、結果としてやりたいことはほとんどできなかった。
今日得られたことは、ブルーピリオドから学んだ教訓だ。
曰く、「自分の価値観を自分で持て」という事だった。
ここだけ聞くと簡単そうに感じるが、とんでもない。「自分の価値観」というものを維持し続けることが、どれだけ行い難いか。
例えば。私の経験談だが、私は高校時代、割と優秀な進学校に在学していた。周囲のレベルは高かったが、私はその学校で中位程度の成績を取っていた。私の周りには様々なレベルの人間が集まっていたが、皆が皆、大学受験においては”MARCH以上”を目指していた。
というか、MARCHも軽視していた。
私の数学の先生も、「今時、MARCHというAIでも入れる大学に入っても意味はない。」
と。
まぁ、事実そうなのかもしれない。
けれど、私は先生や周りの言葉を聞いて、「そうなんだ。」と思ってしまった。
自分の価値観は、環境によって作り出される。大学受験がどれほど難しいことか、という事実は、その当時の私の頭には全くなかった。
私は、私自身の価値観の構築を怠り、「他人の持つ価値観」を借りてしか物事を観察することが出来なかったのである。
今となっては非常に悔しく、そしてその結果行きたい大学に行けなかったという事が、当然の結果であるのだということもわかってしまった。
何故その大学に行きたいか?
「みんなが行きたいから」だ。
そして、こうした経験以外にも、自分の価値観が自分の価値観でなくなるタイミングは非常に多くある。
私自身はいいと思っているのに、他者との評価が乖離して、何度も突き放されて、結果として、自分の判断があっているのか、間違っているのかもわからなくなり、そして他者の価値観に救いを求めてしまう。
「この人が言うから正しい。」そう思ってしまう。
自分の価値観を持つことは大変だ。価値観とは、そもそも正しいも間違っているもないというのに。
唯一間違っているのは、他者の価値観のみで自分が構成されていることだというのに。
「私の価値観は間違っているのではなかろうか」と疑うことは、新しく自分を進歩させる上では重要だというのに。
その疑いの先が、結果として自分の価値観が他者の価値観にすり替わってしまうことになるのだ。
これを読んでくれている諸君も気を付けてほしい。いや、今まで気づいていなかった私がいうのもおこがましいのだが、それでも先達からの忠告として。
「自分の目で感じ、自分の耳で触れ、自分全てで学んでほしい。」
有名な言葉に、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。」とある。
私はこの言葉に賛成だが、一方でこうも思う。
「賢者になるためには、歴史だけでは全く足りない。」と。
下地、土台。それらを作るために、様々なことを経験する。気になったら調べて、周りの人に聞く。自分の判断が常に正しくあるように、そして公開することのないように心がける。
私の今日の日記は以上である。
長文失礼した。