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『海外生活で英語って必要?』

バックパッカーとして6ヶ月かけ海外を周遊し、ヨーロッパを中心に計27ヶ国回った。

そこで私は、ある奇妙な感覚に襲われた。

行く先々で人と会話する中で、
「私はいま何語でしゃべっているんだ?」
という感覚が何度もあったのだ。

当然、日本語ではない。

加えて私は、外国語は英語しか喋れないし、その英語も、とくだん得意意識があるわけでもなく、
英会話経験も皆無だ。

しかしなぜなのか、
伝えようと思ったことは翻訳アプリを使わずとも、
その内容が割としっかり伝わることが多かった。

これら不思議な体験に、帰国した後も
なぜだろう?
と考え続けていたけど、
最近読んだ本にそのヒントとなる記述があった。

ゴッホ/ ファン・ゴッホ美術館, アムステルダム



デジタルアーティストの落合陽一氏は、

日本では、国民の大部分が日本人であるが故、「言葉遣い」と「喋り方」と
「知的なレベル」が一致していることが当たり前と思っていることが多い

と言った。
また日本人は、英語を勉強しようと思ったとき、
文法を間違いないように、発音をしっかり流暢に喋れるように、と、
すべてを完璧にしようという意識が働くらしい。

それはどうやら、
言葉遣いがしっかりしていない= 知的に劣っている
という、認識の結びつきが原因らしい。

しかし、海外では必ずしもそうではない。

世界で著名な大学や国際的な企業、
多国籍の国家であればあるほど、

「言葉遣い」と「喋り方」が、
「知的なレベル」
と一致しないことの方が多くなる。

母国語が英語とは限らないからである。

海外で行われる企業の新商品のプレゼンテーションなども、国籍によっては滑らかな英語とはいかないが、
それでも観客は熱心に耳を傾ける。


つまり、英語で喋られる「中身」さえしっかりしていれば、相手は聞いてくれるのである。


大学や、国際的大企業において、
ホワイトボードが廊下に置いてあることがやたら多いのは、

言葉ではなくその「中身」を、
絵やイラストで視覚的にボードに書き込むことで理解されやすいという、
その工夫の結果なのだろう。

国際交流の円滑化は、語学力とビジュアライズということだろうか。


つまり、長い海外生活において、私が無意識にしていたのは、
英語を「ちゃんと話す」ことではなく、
話したい「中身」=「意味」を伝える行為であったらしい。

その点に熱中するあまり、自分が何語を喋っているのかも意識せず倒錯してしまったと。

英語はあくまで手段であり目的ではない、という話だろうか。

実際、帰国後も、英語力については全くといって向上した実感はないが、

図らずも、ボディランゲージ含め
パッションで何とか相手に伝えようという気合いと、
その結果、意外となんとかったことでの
謎の自信をつけることには成功した。


結論として、国際交流において、個人レベルでいえば、
正しい文法、正しいイントネーションよりも、

問われていることを理解できるだけのリスニング能力と、
英会話としてちゃんと話せなくても
「中身」さえしっかりしていれば、かなり会話できる、ということが分かった。

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