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【劇評】コンプソンズ#13 『ビッグ虚無』|土佐有明

筆者註:大きなネタバレはありませんが、フラットな状態で観劇されたい方は、観劇後にお読みいただくことをお勧めします。

 コンプソンズ=サブカルあるあるで笑いをとる劇団——そんなステレオタイプな図式がいつのまにか浸透してしまっていたように思う。いや、実際、ニッチなサブカルワードに誰よりも敏感に反応していたのは筆者である。カルト的人気を誇る映画監督・若松孝二の隠れた名著『俺は手を汚す』が出てきた時は、さすがに「そんなの誰も知らないでしょ!」とつっこみたくなった。と、同時に、同書を読んだことがある事実に、筆者は無意識にせよ優越感を覚えていたかもしれない。嫌な演劇おじさんである。

 『ビッグ虚無』は序盤、ジェーン・スーの名前を出してジャブをカマす。ジェーン・スーなら皆知っているだろう、という計算が働いていると見た。サブカル圏内から見ると安全で無害なものの象徴として映るスキマスイッチという固有名詞の使い方も巧みだ。もう少し突っ込んで言うと、小劇場に通うような観客は文化的な感度が比較的高く、文化資本にも恵まれているケースが多い。当然、音楽にもそれなりにこだわりがあるだろう。中庸さの記号としてスキマスイッチを出したのは、大正解だったと思う。これはポツドールの三浦大輔が、舞台にギャルやヤンキーやDQNを頻繁に登場させ、観客の視線を彼ら/彼女らを笑うように誘導するのと同じやり口かもしれない。

 なお、ネタはサブカルのみに限らない。炎上に発展した案件やSNSのトレンドワード、一部で話題になったショート動画なども台詞に繰り込まれる。今回の『ビッグ虚無』で言えば、やす子のTwitter(現X)でのバスト問題や、Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」のMV、ホリエモンこと堀江貴文の「野菜は美味しいから食べるの!」という動画など、ぬかりない網羅ぶりである(気になった方は動画検索を)。

 ここで筆者が連想するのはフリッパーズ・ギターである。あらゆる音楽は既に鳴ってしまっており、あとはそれらをいかに解体/再構築するかしかやるべきことがない、という諦念が彼らにはあった。そこには、既存のタームをサンプリングすることでしか自らのアイデンティティを確認することしかできない、悲痛な葛藤と絶望があったはずだ。そして、コンプソンズの作・演出を手掛ける金子鈴幸にも同様の葛藤と絶望を感じる。2024年の第68回岸田戯曲賞の選評で市原佐都子は、金子の前作『愛について語るときは静かにしてくれ』を評してこう書いている。

 サブカルネタや特異な言語感覚は狭い世界に向けた内輪な表現にも思えますが、劇の設定に合わせて、あえてそのようなネタや言語感覚を選び書いているとも感じられ、必然性をもってうまく働いているように思いました。一見軽い読み応えを与えつつ、過去のサブカルネタや特異な言語感覚を通じてしか世界を捉えられないという絶望がひそんでいるように思い、それでもこの世界を肯定していこうとする作家の姿勢を評価したいと感じました。

第68回岸田國士戯曲賞選評(2024年)

 これは筆者がこれまでフリッパーズとコンプソンズに感じたことと、ほぼ、いや、まったく同じことを言っているようだ。こうしたコンプソンズの劇構造はともすれば狭い界隈での内輪受けに終始してしまう危険もはらんでいるわけだが、そうはなっていない、と市原は同評で指摘している。

 そうなっていない原因のひとつに、天皇制(もっと言えば女系天皇の是非)、フェミニズム、ジェノサイド、人種差別など、射程の長い社会問題が多く含まれていることが挙げられる。むろん、これらは過去の公演では単なる“ネタ”として消費されがちだった。どうせギャグなんだろ、真剣に考えているわけじゃないだろ、と思った観客もいたかもしれない。だが、今回のこれらの問題へのツボの押さえ方を見ると、本当に単なるネタとしてイージーに天皇制などを扱っているようには思えなかった。

 以前は社会問題を“ネタ”あるいは“メタ”として扱っていたのが(という物言いがメタではあるが)、『ビッグ虚無』ではまったく様相が違う。ネタでもメタでもなくベタ。時間が経つにつれ、どうやら完全に本気(マジ)でこれらの問題に言及しているのではないか、と思えてくる。重要なのは切実さのこもった熱っぽい台詞だ。右翼と左翼の対立の不毛さ、無差別テロのような殺傷事件の横行、そして、長崎の原爆式典にイスラエルが招待されなかったことでアメリカも欠席した事実への怒り。これらは作・演出を手掛ける金子鈴幸の本音が吐露されたものだと思う。そこにこそ胸を撃たれた。

 ただし、真正面からメッセージを伝えたから感動したわけではない。そこは金子のこと、どうしてもパロディやアイロニーやシニシズムはつきまとう。それは彼にとっての業のようなものである。だが、今回、間違いなくブレイクスルーが起きた。ネタ消費は意図的に抑制され、その隙間からメッセージが染み出してくるから、筆者は心を動かされたのである。

 そう考えると、斜に構えることも多かった過去作が、ここに至るまでの長い長い伏線だった気すらしてくる。そうした迂回を経て、酷薄な現実と真摯に向き合った表現の強度は過去最高だ。もう金子らは、ネタのコピー&ペーストなんて野暮なことはしない。いや、正確には、筆者が5年ほど前に観た彼らの公演にはコピペ感がなかったとは言い切れない。だが、そんな浅薄なことをやるほど、今のコンプソンズの志は低くないのである。

 ちなみに、物語の舞台はハプニングバー。人間の欲望が剥き出しになる場所として、ここを選んだのだろう。なお、この設定自体は、実は映画化もされたある演劇作品にいくつかの点で酷似している。『ビッグ虚無』の魅力を伝えるのが本稿の目的ではあるが、このことについて触れないのはフェアではないだろう。ともあれ、探り探りの男女のやりとりが、やがて波乱含みで不穏な展開を見せ、混沌とした世界像が提示されてゆく。その様は、唐十郎や松尾スズキ、野田秀樹からの影響も窺わせる。

 特に松尾スズキ。少し前に松尾が作・演出した『ふくすけ』の新ヴァージョンを観たが、時事ネタ満載、タブーなし、コンプライアンスなんてどこ吹く風、といった同作が放つ異端と放埓の匂いが、『ビッグ虚無』にも充満していた。また、今作には皇族の側近がハプニングバーに出入りするという設定があるが、松尾の作品には、天皇が部落出身の女性と恋に落ちる作品や、天皇が竹やりでUFOを落とすなんて荒唐無稽極まりない物語もあった。両者の相同性には否が応にも注目が行く。最後に余談だが、最近新訳が発売されたウィリアム・フォークナー『響きと怒り』の舞台は、アメリカの名門コンプソン家。コンプソンズファンならば楽しめる一冊ではないだろうか。


コンプソンズ#13 「ビッグ虚無」

日程:2024年10月16日(水)~20日(日)
会場:駅前劇場

筆者プロフィール
土佐有明(とさありあけ)。ライター。音楽評、書評、演劇評、映画評などを雑誌やWEBに寄稿。
現在、DU BOOKSから出る単著を執筆中。Xのアカウントは@ariaketosa


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