【配信公演観劇しました!】劇団山の手事情社 池上show劇場【DELUXE】Cプログラム
こんにちは、おちらしさんスタッフです。
劇団山の手事情社 池上show劇場【DELUXE】。
3作が一挙に配信されている今回の配信公演、今回はCプログラムを鑑賞しました。
池上show劇場【DELUXE】
Cプログラム
『耳なし芳一』『杜子春』『如菩薩団』
Bプログラムと同じく短編を題材としたひとり芝居の構成ですが、作品のチョイスも受ける印象も思いがけないほど異なり、プログラム全体の色とりどりの豊かさを感じ取ることになりました。
Cプログラムでは、「目に見えているもの・耳に聞こえているもの」の強烈なリアリティと、その向こう側にある「実際に起きた出来事」とのギャップとを共通点に、この二重の風景の意味を考えさせられる作品が並んでいます。
映像などの技術の進化、情報の性質の変化や発信側/受け手側の変化。あらゆる点でもはや見えているものがそのまま現実とは限らないことを思い知らざるを得ない現代で、実在感の塊のような演劇というメディアを通し、そうしたズレつつ重なり合った複雑な世界のあり方に、物語という形で改めて触れなおす時間がここにありました。
『耳なし芳一』
原作:小泉八雲
出演:渡辺可奈子
平家物語を語る腕前のよさで評判の琵琶法師、盲目の芳一が、ある夜に正体の知れない「やんごとなきお方」の屋敷に招かれ壇ノ浦の合戦を語る、古くからの怪談です。今回下敷きにされているのは、これを小泉八雲が文学作品として再構成し、作品集『怪談』の一話として発表したもの。
白と黒のみの舞台に、真っ白な頭巾と法衣に身を包んだ演じ手。視覚を用いない芳一の感覚を、視覚のある観客に向けても伝えるかのように、八雲の英文から立ち上げられた格調高い日本語のことばが深い声で耳を打つ空間。劇場ではおそらくここに、演じ手と観客の間にあるわずかな空気の流れも感じられたものと想像されます。能を思わせるミニマルさのある抑制された動きが、この聴覚を中心とした場を支えていたようにも思えます。
耳なし芳一の物語の中でももっとも有名と思われる、芳一の身体に般若心経を書きつけるシーンでは、一転して視覚が重要な意味を持ちます。アニメーションや漫画など、このシーンで全身を経文に覆われた芳一の姿をビジュアルとしてどこかで見ている観客は多いことと思われますが、ここではそれらとは異なる方向性での表現がなされています。舞台上のシンプルさの理由が明かされ、また怨霊をはねのける経文の超常の力を幻想的に示されるようで肌がぞわりと。
そうして終盤、経文で姿の見えなくなったはずの芳一の元に迎えの霊が訪れる一場。ここで聞こえる、水音のような抽象的な音、そして照明からは、海のような血のような連想を呼び起こされました。壇ノ浦に沈んだ平家の無念、その最期の感覚の断片をそのまま受けるかのように苦痛に身をよじる芳一の姿が、このひとり芝居版「耳なし芳一」の印象を形作るハイライトだと感じられました。
『杜子春』
原作:芥川龍之介
出演:喜多京香
洛陽の都の西門の下、財産を使い果たして途方に暮れる若者・杜子春が、謎めいた老人との出会いによってみずからの生き方を問われていく短編。中国の伝奇小説をベースとし、芥川龍之介が児童向けの読み物として翻案した一編です。
芥川の柔らかくも直裁的な語り口で、物事の芯のみを掴むようにシンプルに描かれていく物語展開が魅力の本作。子供のころに触れた人も多いであろうこの有名作品がそのまま演劇になる、のはほんの序盤だけ。今回のひとり芝居では、ここに演じる喜多京香本人の個人的なエピソードがたっぷりと入り込むさまに度肝を抜かれます。老人の謎めいた言葉に導かれるうち数々の試練が降りかかる杜子春、蕎麦屋のアルバイトに端を発する数々の災難とともに限界耐久ライフを送る喜多京香。はるか昔を舞台にした幻想的な童話の世界と、意地と根性の渦巻く現代人の日常と。はた目には「本当に共通点が?」と目が点になるほどコントラストの強い二者の姿は、「アイアム杜子春!」の高らかな宣言とともに勢いよく結び合わされ、やがて独特のグルーヴ感を生みながらラストに向かって爆進していきます。
物語が佳境に入ってもなお止むことなく同じ比重で走り続ける、『杜子春』と現実のふたつの世界。読めなかった着地点は不意に、さりげなく訪れました。それぞれ単体で語られるなら、我々のよく知る杜子春の物語があるのみだったでしょう。そして同じく単体で語られるなら、なんということもないと言ってしまえばそれまでかもしれない、個人の生活の断片と小さな変化の話があるのみだったでしょう。繰り返された「アイアム杜子春」の響きが、穏やかな余韻を残します。
『如菩薩団』
原作:筒井康隆
出演:長谷川尚美
夫の収入、学歴、住環境。困窮しているわけではないものの質素な暮らしの中、満たされないプライドを抱えて日々を過ごす「団地の主婦」8人組によって淡々と実行される犯罪行為の一幕を描いた、筒井康隆のダークな物語。
ここまで原作となってきた古典からは一気に時代が下り、また筒井康隆の作品でも比較的近年(2000年代)のものとあって、前の2作とは趣は異なり、作品そのものに現代の日常と地続きの雰囲気が濃く出ています。ひとり芝居としてのテンポもまた変化し、古典の空気に合ったゆったりとした間の代わりに終始スピーディー。
登場する「夫人」たちは驚くほど上品に振る舞い、言葉遣いも決して崩れることはありません。そんな彼女たちの姿と、実際に目の前で起きていることはあまりにかけ離れたイメージで、観る側はギャップを脳が処理しきれないような混乱と居心地の悪さに落とされていくことに。文章の上ではそれでも、読む側はある程度の距離を取り、冷静さをもって彼女たちの所業を眺められるかもしれません。しかし舞台の力、一種のおそろしさはこの「距離」をほとんど強制的に狭めてしまえる点にあります。物理的にも近い劇場空間を映した映像。そこで(「地の文」にあたるところまでも!)常に明るく朗らかに、過度の戯画化を注意深く避けたどこか等身大の演技でもって夫人たちの計画遂行が描かれるとき、混乱しつつも楽しく「ノッて」いる自らの姿に気づかざるを得ませんでした。
自ら立てた方針を律儀に守りつつ、慎ましやかな態度と裏腹に猛然と突き進む夫人たち。このギャップを、彼女たちのやり口が物語る一見それらしい正当性とその根底にあるねじれた怒りや鬱屈を、非現実のエンターテインメントと切り離すこともできるでしょう。それでも、軽快に進むストーリーの中で唯一じっくりと間をとって行われる一脚の椅子の上での一連の場面と、その後の奇妙な爽やかさと悲しさの漂うラストは、日常・現実とほんの紙一重のところにあると思えてなりません。
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