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無職228日目からの景色
無職228日目である。
毎日「無職○日目です」とXでポストするのだが頻繁に間違える。日々の生活があまりにも社会あるいは時間そのものから独立しているからだろうか。
数日前まで早朝3~4時に寝る日が続いていたのだが、そろそろ朝型リズムをやりたいという強い意志で早く寝たら、昨日、今日と6時台に起きることができた。昨日は朝7時から映画を観て、今日は同じく朝7時からマックに向かった。
この冬、わたしが外出するときの装いは、帽子、耳当て、厚手のコート、手袋と完全装備である。しかし、愛用の帽子は先日友人と飲んだ日に失くしてしまった。この帽子は4年ほど前、パソコンが壊れて暇を持て余していたときに初めて自分の手で買ったものである。
夏でも冬でも帽子をかぶる習慣がなかったわたしは、齢三十そこそこにして初めて愛用の帽子を手に入れ、勤めていたときは休日にたまにかぶるようになった。
昨年6月末に退職して7月から無職になり、自分の心は新しい未来への不安と焦燥と期待でごちゃごちゃになっていた。そんなとき、どこに行くにもあの帽子をかぶって出かけると落ち着いた。気がつけば標準装備になっていた。
一目惚れしたツバの短いあの帽子は、ワークキャップというらしい。4年前にこのワークキャップを買ったときも、何か新しいことをしたいと思って買ったのだった。当時のわたしにとっての新しいことが「帽子を買ってかぶること」なのだから、他人が知ったらいい大人が何をいまさら、と笑ったのかもしれない。
今のわたしにとっての新しいことは、33歳にして仕事を急に辞めて金もないのにふらふらすることであり、これは他人から見て笑えることというより心配の対象のようである。親や同僚たちは少なからず気にしてくれていたようだが、わたしがよくわからない人間ということも同時に理解してくれており、まあがんばれよと言ってくれた。
「何を考えているかわからない」とは人生で何十回言われたことか知れないが、わたし自身にも、自分というものを捉えられないという実感は昔からある。11年前、大学4年生の卒業を控えた頃の日記にこんなことが綴ってあった。
気づき、長きに亘って曖昧模糊とした僕に確かな性質を、揺ぎ無き姿を重ねて過ごすことは、これは非常に難しい事でした。僕なぞどこにも居やしません。
僕の言動は、僕にはよくわかりませんでした。正確には、はっきりと予測ができませんでした。誰しもがそうかもしれませんが、自覚的か否か、ということが恐らく重要でしょう。
曖昧模糊としたものが真実ならば、ただの事実認識に対して声を荒げるのは馬鹿げていると思います
歴史上の人物にしているように、人物の温もりや冷たさを知らずして認識しているので十分だろうと思います
知るには、それが自分であれ他人であれ、事実に加え、温度や質感を感じるしかないだろうと思います。
とても読みにくい文章だ。
これが書かれた大学4年生の冬から春はというと、前年の12月に全力で作成した卒業論文を提出して教授に嬉しい言葉をかけてもらった後、卒論発表会で発表が面倒になって手抜きのスライドでやったところ温厚な教授に怒られ、そして卒業式には不参加で就活も放棄、内定も無いまま新年度を迎えようとする、そんな時期であった。
おそらくこれを書いた頃は、周囲や世間、社会から求められるわたしの像と、己から湧き上がってくる捉えどころのない感情やエネルギーというものに葛藤していたのだと思う。
その際たる例が、働く意欲がないのに就職活動をすることであり、履歴書を書き、面接で形式的に振る舞うことだった。あまりにも苦痛だったので、選考を辞退したり遅刻したりして、結果3社だけ受けて内定も得ぬまま実質的に大学4年の秋にはもう就活そのものをやめてしまった。
形式的な言葉、振る舞い、マナー、社交辞令、常識、ルール。意味のないと思えることをしたくない自分は、社会に居場所が無いのではないかと思った。行動よりも意味を重視することは自分にとっての必然であった。
わたしは他人を知るときに、少しの言動、実績のようなものでは知り得ないと思った。そしてわたし自身も、瞬間的な言動そのものでスマートに自分を表現することはできなくて、じっくりと正しいと思えること、美しいと思えることを考えたかったし、行動に移したかった。
ゆえに、当時の結論であり、そして今も変わらずに抱く考えはこうだ。
人を知るときには、言動や形式的なあれこれ(マナーや常識など)という事実認識に加えて、その人物の暖かさや生き様、質のようなものに少しでも触れることが重要なのだ。
わたしは出会った人はみな、友人も、同僚も、上司も、客も、店員も、画面の向こうの人物も、今は亡き著者やアーティストにも、そういった温もりに触れるやり方でしか、真の意味で知ることはできなかった。
称賛も批判も同様で、誰かのたった一つの言動を切り取ってすべてを「分かった」ようにああだこうだ決定づけて言ってはいけないと思う。それは当然の倫理観であるし、昨今流れてくる話題に触れるたびにその重要性を再認識する。
つまり、現代はあまりに多くの情報の波に飲まれるあまり、何かを言わなきゃと思って己の倫理観に照らさずに適当なことを言う人が多いのではないか。そしてそれがこの社会を曇らせる一因になっているのではないか、ということを思ったのである。
「無職の金なしが何を言うか、この野郎」という反論が全方位から聞こえるが、むしろ世間や社会から独立し、距離を取っているからこそ見えてくるのだとも言えるだろう。
何の話をしていたかというと、帽子をかぶると社会から距離を取れて、なんだか自分の感覚が鋭くなるということを言いたかった。
明日は無職229日目になる。明日もこの世の真理や社会問題について考えながら、新しい帽子を見つけに帽子屋に行きたい。愛用していた帽子はあるだろうか。
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