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刹那に生きた借金と遊びに溺れた青春の終焉

20代は、まさに刹那的な生き方の象徴だった。未来への展望は置き去りにされ、目の前の快楽と欲望に身を任せる日々。その中心には、女性関係と金銭問題が常に渦巻いていた。

10代の頃は目立たない存在で、異性からの関心も薄かった。しかし、20代になると、なぜか女性に好かれるようになった。その理由は明確ではない。背伸びした大人の振る舞いや、危うい雰囲気が魅力的に映ったのかもしれない。その結果、複数の女性と同時に関係を持つという、今思えば愚かな生活を送っていた。

当時の自分にとって、女性関係は自己肯定感を満たすための手段に過ぎなかった。好意を向けられることで、「自分には価値がある」と錯覚していたのだ。その裏で、相手の気持ちを弄ぶような行為を繰り返し、傷つけることへの無頓着さは目を覆うばかりだった。「結婚なんて無責任なことはできない」と嘯いていたが、実際はただの逃避に過ぎなかった。

金銭感覚も同様に無責任だった。遊びのためのお金が必要になると、安易にキャッシングに手を出し、借金を重ねた。給料日に一部を返済しても、すぐにまた使い込む。アルバイトをしている友人にも借金を頼む始末だった。それでも「なんとかなる」と楽観視し、負債の重さに目を向けようとしなかった。

仕事もまた、長続きしなかった。新卒で入社した会社では、最初は真面目に働いていたものの、次第に「こんなものか」と熱意を失っていった。責任の重さや、人間関係の煩わしさに嫌気がさし、結局転職を決意する。その頃には、自分の人生がどこへ向かっているのかさえ分からなかった。ただ一つ確かなことは、目の前の「楽しさ」だけが行動の原動力だったということだ。

29歳を迎える頃、こうした刹那的な生活にようやく疲弊し始めた。無責任に積み上げた借金、崩壊寸前の人間関係、そして転職を繰り返しても満たされない心の空虚さ。表面上は「自由」を謳歌しているように見えても、心の奥底には拭いきれない虚無感が漂っていた。

この20代の終わりが、人生のすべてを大きく変える転機になったわけではない。しかし、ふと立ち止まり、「このままではいけない」と強く思うようになったのは事実だ。これが、少しずつ変わるための小さなきっかけになった。

刹那に生きた20代は、決して誇れるものではない。しかし、その経験が今の自分を形作っているのだと、自嘲気味に振り返ることができる。あの頃の過ちや後悔があるからこそ、今の自分は地に足をつけ、未来を見据えることができる。

過去を否定するのではなく、過去の自分を戒め、そこから学びを得て、成長していく。それが、刹那的な20代を過ごした自分にできる、唯一の償いなのかもしれない。そして、その経験を糧に、これからの人生をより良く生きるための糧としていくのだろう。

とは、うまくは行かないのだった。

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