【歌詞検討#3】Mrs. Green Apple ”In the Morning”
今回は、Mrs. Green Appleの『In the Morning』の歌詞について、私が感じたことを記事にします。
楽曲名:In the Morning
作詞:大森元貴
作曲:大森元貴
リリース:3rdシングルとして、2016年にリリース。
ミセスが世間を風靡する少し前くらいの名曲です。爽やかながらも、大森さんの当時の感性が伺える歌詞となっていますが、覗いてみましょう。
出だしは朝を彷彿とさせる状況描写に前向きな言葉が用意されています。自発的に生きることを指して、朝を迎えに行くと表現していますね。
このAメロの段階で、この曲が明るいだけのソングというよりも、励ましの応援歌に近いものであることが分かります。イントロ含め、前段階では爽やかな朝の曲かと思っていたら、やや暗めの状況を描出しています。確かに朝という時間帯から連想されるものは、元気や爽やかさよりも、その後の予定(会社、学校など)に対する陰鬱さであったり、ため息をつきたくなるようなストレスフルな時間帯と言えることもあると思います。そういう人々の悩みに対し、優しい言葉で励ましているメッセージとなっています。
個人的ではありますが、二つ目の”偽らないで 自分を忘れそうなら そんな奴らとは離れなよ”の部分は、学生に向けた言葉に聞こえました。もちろん社会人にも響く言葉だとも思いますが、学生の頃の方が、何かと社会性を守ろうとして自分の本当にしたいことを実行できなかったり、目を付けられないように大人しくするみたいな場面が多々あったなと感じました。この歌がエールを送っている相手にとっては、学校がすべてであり、同級生との繋がりが人生を左右するくらいの一大事と捉えているかもしれません(私はそうでした)。その人たちといることが、自分にとって良い影響をもたらしていない場合においては、きっぱりと”奴ら”と言ってくれるこの歌詞に勇気づけられ、元気がでた人も多いだろうと推測します。
これが何を意味しているのか、少し難しいと思いました。その人の愛を皮肉っているのか、それとも、本質的なことを言っているのか、意見が分かれると思います。個人的には前者寄りで、持っているだけなら、分け合うこともできるよね、というニュアンスで、持て余した愛を無駄にしない方がよいぞみたいなニュアンスで受け取りました。どちらにせよ、愛を分け合って、幸せを伝播させていこうという趣旨の歌詞に思われます。自分を大切に!みたいなひとつ前の歌詞とのずれを感じますが、それでも人生に悩める人に対する提言という意味では一貫しているかと思いました。
切り替えの大切さを問うているのかなと感じました。一見無責任な歌詞にも見えるのですが、私が想像したのは例えば先ほど言及した人間関係の部分で、あれだけ大切に思っていた同級生付き合いに対して、自分の主張を優先した結果付き合いがうまくいかなくなったとしても、それを後悔せずに翌朝を迎えるメンタルや思考を持つことが望ましくないかという助言を、願望の形式で訴えているサビの部分であると思います。自分らしく生きることに対して後悔しない人生観を持って生きることの素晴らしさを間接的に宣伝している箇所にも思えました。
2番も比較的同じメッセージを歌っていいて、自分らしく生きろということと、悪いことはそう長く続かないという提言に聞こえます。自分に気づきを与えさせることを促すこの作りは応援ソングとしてはやや珍しく、歌いながら、鏡に向かって言うセリフにもリンクします。なんとなくですが、明文化していない形で、アンジェラ・アキの手紙のような応援になっている気もします。今となって分かる若い時の悩みに対してほしかった一押しを綴ってくれる歌詞だなと痛感しました。
ここがこの曲で最も刺さった部分です。あまりにも本質だと思いました。人って、自分のことで精一杯の時、他人のことって気にならないと思います。でも、他人にまつわることで精一杯の時、批判的な思考が脳内を泳ぎまくると思います。この自分のことで精一杯というのは、趣味に没頭している時間や楽しいことに没入している時以外にも、電車に間に合わないために走っているときやプレゼン前でも同様で、ある意味ではそのような”自分の時間を謳歌している”時に人は(少なくとも八つ当たり的に)批判的になることは少ないと思っています。一方で、他人との比較で落ち込むことや、人間関係上悩みがあるとき、その脳内は自分を責めるような他人を責めるような、そのような矢印で一杯だと思います。そしたら自分よりうまくいっている人や悩みがなさそうな人に対しても、”何かを責める”という思考回路が常に惹かれているがゆえに、批判的になりやすいのかなと、私も実体験を通じて感じたことがあります。妬みを敵意に変換し、自分を傷つけないための防衛策として、楽しそうな人々を凡で俗物であると評し、それに靡かない自分に特別性を付与することで自分の平静とアイデンティティを守っていたそんな時期が私にもありました。この歌詞だけでは神経逆撫でではありますが、曲を全体を通して聴くと、本格的に自分のことを想ってくれている達観した友達からの、”お前に元気出してほしいんだけどな”のような願いにも聞こえてきます。
これも思春期にありがちな光景のように思われます。例えば部活の大会で負けて、尋常じゃないくらい悔しく、涙が出そうになったとしましょう。それでも、泣いている自分が恥ずかしいという規範に囚われて「そこまで本気じゃなかったし」とか「今日調子が悪かった」みたいな言い訳で自己防衛をしてしまう瞬間ってあったと思います。これもまた本当に傷つくことを避けるために、自ら予防線を張ってしまうことを謳った歌詞のように感じました。確かに子供の頃は過剰に孤独を感じたり、過剰に世界に対して嫌気が差す感情に囚われたりするものだと思います。しかしそんな風にして今を全力で生きている人に向かって、真っすぐ進むことの尊さと、そういう存在には必ず理解者がいることを諭す内容となっています。
ここで私は、敢えて、「今を全力で生きる」という言葉を使いました。ここで私が表したかった人物像は、先ほど言及した防衛策をとってしまうタイプの人たちのことです。言葉の語義的には、むしろ自分の夢に向かって真っすぐ努力する、ひたむきな情熱と相性が良いと思いますが、それはむしろ今を全力で生きることを求めているかのように感じてしまうのです。言い方を変えれば、人生2回目の人のように思えてしまうのです。これは私がひねくれているだけだと思いますが、”人生一度きりだよ!”みたいなことを言う人って”人生”という視座で日々を捉えることに長けすぎているように感じます。なんで一つのものに投資できるのか、なぜそこまで人生を何かに捧げることにためらいがないのか、それは今に夢中であると同時に、今以外の自分にも夢中であるからです。一方で、真っすぐにいきれない、自分を部上意思てしまい、負けないようにかっこつけてしまうような人間は、やりたいことをできずに今を生きていない、のではなく、今という今を大事にしているのです。長期で見たりしません。今恥ずかしい。今気分良い。今あれやりたくない。こういう感性に素直なだけだと思うのです。この自分という人間から内発的に生じる感情に、全力でしたがっているだけだとも思うんです。だから、ここでのエールの対象になっている人物像こそ、私の考える意味では全力で今を生きている人間なのです。
余談が過ぎましたが、ここの歌詞ではひどく深い夜をいくつも過ごしてきたことを”慣れちゃいそう”と表現しています。幼さが残った言葉遣いでありながら、自身の立場に冷笑する主人公の姿も浮かびます。そして、そんな夜の中を独り彷徨うも、やはり寂しさという感情が浮かび上がり、自分という存在に欠けているものを浮かび上がらせてくる、そんな状況を私は想像しました。
キミ=光であることは間違いないです。そして、これが恋でもあり友情でもあり、夢でもありえます。とにかく己の寂しさから解放してくれる存在であり、己にとって道しるべとなってくれる存在を指しています。まだこの現状は改善されていないですし、長いこと落ち込むことが続くことが予想されています。そんな暗い中でも、”でも”と言う逆説をもって、暗闇に立ち向かうことを決意する瞬間を表しているのだと思いました。
やや容易な言葉ではありますが、努力と創造をやめないで、自分の軸や生きがいみたいなものを大切に持ち、人生うまくいかないこともあるけれど、次なる始まりに向けて、くよくよせずに生きていこうというメッセージを感じる曲でした。ずっと応援ソングとして聞いていましたが、こうやって分解して大森さんが言いたかったことを考えているうちに、自分たちに向けて書いた曲なのではとも思えるようになりました。自らの不安をかき消し、明るく世界を捉えるためにミセスも歌うのだと思いました。
私はこの曲を自分が落ち込んでいるときに聞いて、あらゆる歌詞が自分に当てはまる気がして不思議に感じた時期もありました。その時は私も今に全力でした。しかし朝という時間は毎日訪れるのだから、どうせ迎えるなら、笑っていたいという最後の歌詞には今となっては完全に同意します。人生を強く生きていきたいと感じさせられる内容の曲でした。
以上、また次回の記事までこうご期待を。
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