【歌詞検討#1】米津玄師 ”カナリヤ”
今回は、米津玄師の『カナリヤ』の歌詞について、私が感じたことを記事にします。
楽曲名:カナリヤ
作詞/作曲:米津玄師
リリース:2020年 STRAY SHEEPにて収録。
追記情報:MVは是枝監督が手掛ける。
上記のような背景もありながら、歌詞を眺めていきたいと思います。
米津さん自身も意識しているとのことでしたが、近年はイントロを削ってすぐ本題=楽曲に入る曲の方がZ世代のタイパ感覚と合うらしいです。この曲も例外ではなく、歌い出しから始まっており、静かだけど暗い感じではなく、まさにMVで表現されていたような、春の萌芽の時期を彷彿とさせる音が合わさっています。
コロナ禍での生活を完全に想定している歌詞であり、ステイホーム時の情景を描きながらも、自分を窓から見えるその花と重ねている、そんな主人公の姿が想像できます。
米津さんの歌詞がなぜここまで魅力的なのか、という問いに対し、私は米津さんがもつ、語彙力の豊富さが要因なのかなと考えています。特定の感情、情景にマッチする言葉を適切に選び抜いている印象を強く受けます。そのような箇所にも注目しながら聞き進めます。
「人いきれ(人熱れ)」・・・人が多く集まって、体熱やにおいでむんむんすること。(デジタル大辞泉)
人が大勢集まることが可能であったかつて=コロナ前の世情と、そこにあった思い出(あなたの笑顔)にふけている場面。”人いきれ”という単語をものの見事に懐かしく価値のあるものに昇華させることに成功しています。
個人的な話ではありますが、「涼しい夏」を思い出させてくれる楽曲が本当に好きなんです。涼しい夏というのは何も冷房やらアイスやらプールのようなシンプルな冷たさではなく、例えば好きな人との無言の夜道や、汗ばんだ体にほんのり秋をちらつかせる風が吹き抜けたときのことでもあれば、部活に打ち込んでいて暑さを気にしてなかった炎天下や無邪気に青春を謳歌して出かけに行ったことを反芻する瞬間のことを指します。共感が得られるかどうか、微妙ではありますが、私は青春と結びついている輝やかしい懐かしさには、体温を冷やす効果があると感じています。思い出のフィルターをかけることによって、暑さの記憶よりも胸を締め付ける情動が優先するような感じ。エモいとか言われている感情に似ているのかもしれませんね。
やや脱線しましたが、この人いきれの使い方も、私からしてみれば、この”体温低下”をもたらす表現をしています。熱くて湿っぽい環境下での出来事であり、当時は環境による負債(暑さが辛い、人込みで疲れる、汗が煩わしい等)を抱えたであろう出来事であり、それを要素として含んでいる情景を思い浮かべていながらも、その当時の負債を一切意識することなく、輝いていた側面だけを切り出してしまって置ける思い出。このギャップがむしろ私に涼しさを提供してくれるのです。
「プロムナード」・・・散歩道、遊歩道(デジタル大辞典)
当然米津さんも意識されていると思うのですが、歌詞で聴覚を刺激することを忘れないのがこの人のセンスあるところと、勝手に私は思っています。むしろ”四月の末の”を入れているのが(ここまでしか見ないと)丁寧すぎると感じてしまうほどに、カナリヤが聞こえてくる季節ということを伝えていると感じます。また秀逸であるのが、この”誰もが忘れる”という部分に対し、”覚えていたい”という対義構造。大勢の人にとっては特別でないことの中に、自分は特別を見出したという主張にも捉えることができるし、あなたとなら、凡も非凡になると捉えることもできそうな部分だと思いました。
”あなたの指先が震えていた”になにを当てはめるか、人によって異なってくると思います。私は、この曲全体のテーマも含めて、何かの覚悟のあらわれなのかなと推察していました。サビの部分があなたに向けたメッセージであることからも、悔しさ等からくるものではなく、不安や変化への迷いに類似した感情が震えを誘発したと考えました。皆さんはどうでしょうか。
こういうところで分かりやすい歌詞に戻すのもスキルと考えます。というのも、ここのサビはあなた=この楽曲の聞き手という体で米津さんも書いていると思うんです。そうなったときに、ここに複雑なメッセージを置いても届かないんです。そこでシンプルな肯定。いいよ。わかりやすく救われる人も多いのではないかと思いますね。冒頭にもあった、”変わっていくことを肯定する”曲としては見事な歌詞の在り方と考えます。
ここの意味わかった人いますか。私はわかりませんでした。”何も言わないまま”という部分に意外性を置いていることから、戻らないことに対し騒がずとも悲しんでいる人間の像が思い浮かべなくもないですね。何かしたくでもできないもどかしさなのか、修復不可能と思われる事件に直面しているのか、一人で耐えるしかできない状況をこのように表現したのか、私にはわからなかったです。ただ主人公はそのような悲しい出来事に直面している”あなた”のことをちゃんと認識しています。
ここの一番との対比構造も素晴らしいですね。カナリヤという聴覚を刺激する存在がいないという意味での時間経過を示すと同時に、代わりに補われたのが木の葉の音。そして聞き手のスコープを絞りに絞らせて”湖畔の隅っこ”を脳内で描かせる。世界観が統一されているような、少なくとも一貫して流れている音楽と解釈不一致になる状況や情景は描かれていないのが、米津さんならではの咀嚼力の高さといえるでしょう。そして後半は今度は主人公の決心の方に、移行していると。完全に一番を活かしきった詩でたまげますね。
自由に変化していくことを再び肯定する歌詞。”はためく風”ってのがまた上手な点ですよね。はためくのって本来は、それこそ旗であったり、船の帆であったりと、風に使うものではないですから。それをどのくらいの風か、そしてどのような状況かが見えてくる(晴れている日の風に使いそうな表現で抑えている印象)ように言葉を操っているのですから、巧みです。
米津さんの傾向として、恋という言葉にすごいたくさんの意味とストーリを委譲させているのが捉えられます。こんなに語彙力のある米津さんが恋という言葉だけは、かたくなに何も手付ずでそのまま採用することが多いのです。当初私は、「恋をするって?ここだけ詰め甘くない?そんな俗な感じで確かめ合うのでいいの?」って思ってました。なんて浅はかであったのでしょう。
恋には様々な形があり、様々な成り行きがあり、様々な感情があります。そのすべてを包含して、おそらく米津さんは、「恋」と呼んでいます。当初の私のようにキュンキュンすることとか、魅力を感じて何も手がつかないとかのことだけでは当然なく、例えば好きな人の特定のくせについて覚えているとか、顔が似てくるとか、お互いの気遣いの精度が向上する(いわなくても水やりをするようになる)とか、日常に存在した些細な”共鳴”を恋と称していると感じています。だから、この歌詞が一番言いたいこととしては、ずっと一緒だよという安心感を与えることであると、私は思い涙が出ます。
上記の歌詞とその後もう一度、二番のサビの部分を歌って曲は終わります。わかりやすく認めてあげることがこのコロナ禍において非常に効果的であったことが伺えます。ボカロはじめ、尖った言葉で社会を揶揄するような表現を使っていたアーティストがこんなやさしい曲かけるのだから、爆売れのポテンシャルはあったのでしょう。
この曲は米津さんのなかでは大変マイナーな方ではあると思いますが、この人の技術が詰まっている楽曲とも私は捉えたので、一番目の検討曲とさせていただきました。
今回のように私の記事は大抵褒めちぎるだけなので、もし聞いてほしい曲とかあれば、私の観点から褒めちぎります。ぜひおススメ教えてください。
Today's best lyric:
カナリヤが消えていく 五月の末の 木の葉が響き合う湖畔の隅っこ