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僕が研修医中にアメリカにリサーチで留学した時の話
僕は初期研修中に1年間、アメリカの病院に臨床研究のトレーニングに行く機会がありました。その時の話を少し。。
このトレーニングのために日本での初期研修を1年中断しないといけなかったのですが、それ以上に実りのある経験でした。勉強になったり、キャリアを考えるきっかけになっただけでなく、その後に、臨床フェローとして早い段階で米国で働くことができたのは、この経験があったおかげでした。(少し複雑な話ですがState licenseの関係上でも)
1.どうしていくことになったか
行くことになったきっかけは、たまたま来たメールでした。学生時代に交換留学の形でアメリカの病院に3か月留学したのですが、そのグループで作られたメーリングリストがありました。ちょうど、初期研修1年目での初めての休暇を利用し、同期と一緒に香港に旅行に行くときでした。空港の国際線ターミナルのゲートに2人で座って他愛のない話をしながら、出発時間を待っていました。その時に、メールの着信音がなって、開いたらアメリカの某病院で働いている先生の知り合いからのメーリングリストへの投稿でした。読むと、臨床研究に興味のある若手をを1年間、その病院のCTSA(臨床研究の講義)のクラスの受講も含めてチームに迎えたいという話でした。友達も一緒のメーリングリストに入っていたので、「こんなのあるんだねえ」と言いながら話をしていたのですが、僕の頭の中では、直感でしたが、これは行くしかないという思いでいっぱいでした。その旅行から帰ったらすぐに家族と相談し、応募のメールを送りました。とにかく面白そう、逃したら後悔する、と思っていただけで、後先のことはあまり考えていなかったなあと今思い出すと感じます。。若かった。。
その後、現地の病院に見学を兼ねて呼ばれ、直接その先生と会って、面接をさせて頂き、採用が決まりました。
2.何をしたか
臨床研究を非常に活動的に行っている施設であったため、そこで行われている臨床研究の手伝いを行いました。
具体的には、データをカルテから集めてきてRedCapなどに整理したり、ゼロから研究のプロトコールを書いたり(その研究は現在もまだ行われている!)、ケースレポートを何本か書かせて頂いたりしました。学会でも何個か発表させて頂きました。学会への準備、旅行、発表など全てが貴重な経験でした。
また、CTSAのクラスでは、統計、疫学、スタディデザインなどの講義をとりました。講義の受講生は、その病院の医師だけでなく、他の国から来ているResearcherもいたりなど、非常に多様性に富んでいて、ディスカッションは盛り上がりました。
結果、英語で論文などの文章を書く練習(語彙の選択、論文の基本的なスタイルの理解)ができたこと、基本的な統計処理ができるようになったこと、アメリカの病院がどのようなダイナミズムで動いているのかを垣間見ることができたことなどは具体的なスキルとして得られてよかったと思います。特に作文能力については、最初は下書きを真っ赤にされてがっかりしていましたが、ひたすら書き続け、これで得たものは今でも当然ですが、役に立っています。
3. 印象的な出会い
僕の上司が所属している臨床研究チームがあったのですが、そこのミーティングに毎週参加していました。グローバルなプロジェクトを何件も行っているチームで、一番力を入れていたのは、電子カルテを適切な治療法を助言できるようなものに変えていくというものでした。例えば、ICUの患者さんにバイタルなどが一気に崩れかけた時にすぐにアラートを鳴らして、敗血症の治療法や選択薬などを具体的な投与量などと共に示したり、呼吸状態が悪くなると原因の候補について示したり、今思うとAIの走りのようなことを作っていたのだなあとも思います。もちろん、医師が直接患者さんを診て判断したほうが良いことが多い印象でしたが、こういったことからどんどん技術は進化していくのだろうと思っていました。
そのチームは10-20人くらいの医師、データサイエンティストなどからなり、非常に多様性に富んだチームでした。中でもインド、中国からの人が多く、チームを引っ張っていました。そこで、非常に印象的な出会いがありました。
Dr. Li(仮称)という名前の中国人医師でした。Dr. Liは中国で大きな大学病院の循環器の教授をされており、彼の部下たちを次から次へとアメリカへ送り込み、そして1-2年すると帰国させ次の人材を送り込むということをしていました。その上で、彼自身も、こちらに来てプロジェクトの重要な役割を果たしており、英語と中国語を使いこなしながら、まさに中国とアメリカの2つの国で同時に働いているという形でした。その当時は、今のようにZoomなどで仕事をするというのは一般的ではなかったので、毎月のように2か国を、場合によってはプロジェクトのため他の国にも飛んで回っていました。
僕が、初期研修や医学生の時の病院実習で見てきた日本での医師の働き方と大きく異なっており、なんだこの人は、、と衝撃を受けました。これが世界かと。きっとこういう人が、世界の医療を推進しているのだろうと感じたのでした。この出会いは、僕のその後のキャリアの在り方に大きな影響を与えました。
4.悩みの時期
今でも時々当時のメールを読み返すのですが、留学してからの最初の4-6か月は本当に苦しかったのを覚えています。いわゆるホームシックとかカルチャーショックとかそういうことではなかったのですが、自分が医師としてどうなりたいのかを夜寝られないくらいに悩んでいました。
きっかけは、上司と一緒にしゃべっていた時に、どうして留学に興味があるのと聞かれたことでした。その時は、臨床研究がしたいから、アメリカだと臨床トレーニングがよさそうだから、と答えましたが、自分の中でホントに?何を知っている?それでどうしたい?などの疑問が湧いてきたのでした。
研究がしたい、良さそうなトレーニングを受けたいというのも、そもそもアメリカに行きたいというのも、正直単なる好奇心だけで、目標でも何でもないんじゃないかと気づいたのでした。周りを見れば、国の政治的な理由で医師としてトレーニングができないからアメリカへ、自分が子供の時に癌に苦しんだのでその研究と治療に、救えなかった患者さんを救えるようになりたいなど、具体的な理由をもってアメリカに来ることを目指している、あるいはアメリカに来た人たちばかりでした。そもそも、何でアメリカじゃないといけない?ヨーロッパは?アフリカは?いやそもそも日本でできることも多いんじゃないか?などの思いも出てきて、それまで、初期研修でイケイケどんどんで、それこそ学生時代の部活の“ノリ“で、ひたすら勉強と臨床トレーニングに邁進してきた自分の在り方に疑問を持たざるを得なくなりました。
何も目標なく、このままひたすら好奇心だけで進んでいる自分は本当にいい医師になれるのだろうかと悩みました。自分はあまりに精神的にも、Professionalな意味でも未熟すぎなのではないかと。。
行き詰まり、当時の研修先で尊敬していた先生方や、学生時代にお世話になった先生や、色々な人に連絡をとり悩みを聞いてもらいました。きっとこの道は自分だけが通っている道ではなく、尊敬する先生方はきっと答えを知っているはずという感覚があったからです。
今こうして当時のメールを振り返ると、色んな方にひたすら「どうしたら良い医師になれるのですか?こんな僕でも本当に良い医師になれるのですが?」と質問していまました。今見ると、純粋すぎる質問ですが、本当に苦しんでいたのだと思います。
これが頂いた答えでした。
1) 良い医師ではなく、良きことを成す人間になること
2) 自分が行っていることが有益であるかは、その時はわからない。
人の役に立ちたいと思い、そのための自分の行いが単に好奇心に沿った具体的な到着点を持たない探求心からだとしても、Osler先生の言葉で、「世界の歴史で偉大なことはすべて若者によってなされている」というものがあるように、きっと若者のその心が何か大きなものにつながっていくのだということ。そして、Steve JobsのConnecting dotsのように、それは何かを目指したものでなくても、最後にはきっとDotがつながり、大きなものを生み出すのだということ。そして、マルクスの言葉にもあるように、「もし君が目前の仕事を正しい理性に従って熱心に、力強く、親切に行い、決しては立間仕事のようにやらず、自分のダイモーン(内面の理性)を潔く保つならば、君は幸福な人生を送るだろう。誰一人、それを拒みうるものはいない」ということ。
ああ、そういうことかと、一歩ずつ真摯に目の前の仕事を頑張ることは間違いではないのだと安心し、これからの言葉やアドバイスは僕の心を晴れやかにし、次のステップへの大きなモチベーションになりました。この経験を医師2年目の時点でできたのは、大変大きなものでした。
その後、色々な経験を留学後もさせて頂いたおかげで、自分が医療や患者さんのためにしたこと、在りたい在り方などが見えてくるようになりました。(まだまだ悩むことが多いですが。。)
今振り返ると、個人的には1年の留学で得た一番大きなものは、Clinical Researcherとしてのスキル以上に、この自問自答の中で自分の医師としての在り方に本気で向き合う時間だったかと思います。