二次元に生まれるということ
あれやらこれやらを作っていたらこんな時間になってしまった。
9月中にもう一つ出すと言っていたWEBアプリも無事完成して、ささやかながらお祝いをできたのでよかった。
制作も終盤になってくると「これほんとに出して大丈夫かな」「スベってないかな」と不安になる。
過去にも一度大スベりしたことがあるけれど、イラストとは評価が完全に異なることも踏まえて、自分の作りたいものがきちんと作れているため、それで満足している。今回も時間ギリギリにはなったものの、作りたい機能はおおむね作れているので十分だ。誰かのスマホで動けば万々歳。
いちじく氏は彼を描くのはこれで最後になると言っていた。
それが気持ち的なものか、契約的なものかはわからないけど、最後という言葉には今でも胸が痛くなる。
ライブ感の無いコンテンツなら記念日は明るく楽しく祝うのが通常で、ぼくはそんな空気にしか触れてこなかった。
だから改めて、喜怒哀楽の入り混じった、誰もが暗い気持ちを押し殺してせめて記念日だからと明るくふるまっている様子を画面越しに眺めていると、妙な気持ちになる。
記念日には祭壇を作って絵を描く、たったそれだけのありふれた慣例にこんなに表情が出るものなんだ。
彼が25年前に生まれたということは、そこから25年間の人生があるわけで、ぼくらと別れた後にも、1年の人生があるわけで。
ぼくが見た半年間、デビュー当初から見ていた人との3年間、彼と彼を作り出した人間が見たその他たくさんの時間、誰かの頭の中にある世界の時間、絵として切り出された一瞬の時間。
そこに事実や実態は無くても、ぼくらは勝手に彼の時間を埋めていて、そしてそれは彼亡き今は誰にも否定できない。
当人がどう思うかはさておき、二次元に生まれるということは、本来そういうことだよね。
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実家暮らしの兎獣人です。