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縄文人風の人々をAI生成し、存在しないところから見返されてみる。

急に思いついて、当時っぽい縄文人風の記念写真をAIで生成してみた。

当たり前だけど彼らは存在していなくて、令和六年にどこかの高速PCを思い切り発熱させて紡ぎ上げた幻覚だ。

AIは言われるがままに、何の価値も持たない、誤解だけで紡いだデタラメを何枚も吐き出し、こちらはどこまでも誤解を深めながら、どうにかそれっぽい空気を、誤解の雲の中から探そうとする。

この、誤解の海を捜索し続ける感じがとても好きだ。

だいたい生成は、軽い気持ちで始まる。
縄文時代ってこんなだったか?違うか?どうなんだ?いや全然違うだろとか、無根拠で適当なことをボンヤリ考えながら、半ば機械的にボタンを押し続ける。存在しなかった人たちは次々と生成され続ける。

AIともいえど目線によるそれなりの呪力めいたものはやはりあって、何人も何人も、生成された当時の人達の目線を受けているうち、なんだかボーッと生きているのが申し訳ないようにも思えてくる。

彼ら、ちゃんと生きていたんだろうなと、いや生きてないけど。
でもきっと、大きく間違えてはいない自然の民ではあったのだろうと、いやだから自然じゃないって。合成百%だって。
などと気楽な逡巡を繰り返しながら、それでも生成の手は止まらない。

確かにAIが生成してくる当時の記念写真たちには、ちょっと過剰な原始っぽさがある。
アジアっぽい括りで総括してくる感じや、未開の原始人イメージが強調されているところも確かにある。

けれど、こちらをまっすぐ見る視線には、やはり意志の力というか、現状を生きる「妙に生々しい知性」のようなものを感じる。

こんな縄文時代はなかった。けれど、全体的な「感じ」は、そうだったかもしれない。

ありえたかもしれない過去を大量に生成するうち、空気感のミッシングリンクが埋まるのではないかと幻想を抱く。

数万、数億と続く誤解が誤解をさらに重ね、どんどん本当から遠ざかってゆく。

一周まわって本当になってくれたりしないかしら


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