見出し画像

輪島功一の試合と縄文土器

関根勤が輪島に扮する、定番のモノマネを見ていた。
今に至るまで何度もあちこちで繰り返され、もはや伝統芸能になりつつある氏のモノマネを見ているうちに、いまさらだけど気がついた。

「そういえば輪島の試合、ちゃんと見たことがないな」

だからためしに見た。
凄い。一瞬で引き込まれた。
ベルトをもぎ取った大一番から最後の試合まで、一気に全部見た。
僕は輪島をよく知らなかったから、全試合、勝つか負けるか、ヒヤヒヤしながら見ることができた。これはちょっとだけラッキーだったかもしれない。
夢中だった。手に汗を握った。映像でこんなに血が滾ったのは久しぶりだった。

試合する輪島の顔は不思議だった。
獰猛にも見えるし、チャーミングな小動物にも見えるし、純朴にも策士にも見えるし、美男子にも見えるし原始人にも見える。意図的にも天然にも見える。とにかく、固まった顔がなかった。その場その場で、するべき顔をしていた。
つまり表情筋にセオリーがなかった。
全体的な顔立ちの印象は素朴なのに、その表情は常に流れていた。

けれど、氏のボクシングスタイルは「嘘になりようがない理論」で組み上げられている。全てに理由があり、それらの理由に基づいて考え、やるべきことをやっている。
理論を身体に直結させるのは、普通の人にはできない。普通の人に、そんな体力はないからだ。
理論と身体の直結状態は、何もしていなくても人間の体力を急激に奪ってゆく。
だから普通の人は体力を使いすぎないために、箸休めのブリッジとして、脳だけを使って思考する。

有り余る身体能力に基づいて構築された理論は、融通無碍にリングの上を流れながら、本当であったことの痕跡だけを残す。

縄文土器を思い出した。
縄文人ではなく、縄文土器だ。

狩猟に特化した縄文男性を感じるのは、輪島よりも具志堅用高だ。
容赦なくことを為すあの無表情と、試合に勝つたびにその身体が、人体から「勝利のシステム」へと移行してゆく様子は、狩りのスペシャリストが、そうであるために己を磨く様子そのものだ。

ならばもうひとりのガッツ石松はどうかとなるけれど、そのボクシング所作は、圧倒的に文明の理論に基づいている。
自らを文明人として、文明人である相手と対峙してボクシングをしている。めちゃくちゃ現代的。ことばの通じるモダンな世界のやりとりを、超高速な暴力的世界の中で実現している。

お二方とも超人的な天才ボクサーだが、縄文土器に通じる「まるで泥のような流麗」の要素は少ない。

輪島はファニーだ。クニャクニャ笑う。そして、そのファニーなクニャクニャ笑顔の延長線上に、試合中の獰猛な狩猟者の顔がある。
このファニーなクニャクニャが現在進行形で流れる源泉は、縄文土器とおんなじところにあるように見えてしまうのだ。

縄文土器も過分にファニーでシリアスで、身体感覚的理論で造形されている。生き死にの領域に直結しているのに、なんだかいつも笑っている。

カエル跳び、よそ見、定形外すぎる軌道などなど。その臨機応変な知性は、縄文土器のライブ感に満ちた遊び心と通底している。もちろんその遊び心は、限界領域にある「死なないために設けられたすこしの余白」で生成されるものだ。

たとえば直線的な動きとは、農耕民族、つまり正解のある世界におけるスクエアな所作だ。対して曲線的な動きとは、狩猟者がダイブした環境において、自らの内と皮膚に触れる自然との境界で生み出された「不定形さ」そのものだ。

疑いなく、試合する輪島は後者に見える。
そして、それを自らの内に理論化してパッケージングしているところは、ほとんど縄文土器そのものとも言える(言い過ぎだとも思う)

共通部分をさらに挙げれば、両者とも「実は自由じゃない」ということだ。
ボクシングと土器、双方ともきっちりとしたルールの枠組みがあり、その枠組みの中、さらにそこで規定されたセオリーの中、微細とも思える領域で、土器製作者も輪島も極限の自由を醸す。生存するために。
それを見て、誰もが思うのだ。

「生きているということは、すばらしい」

ばかみたいな結論だ。
でも、しょうがないのだ。
誰もがばかみたいになってしまうのだ。輪島の試合を見ていても、縄文土器を見ていても。

輪島功一さん(ここだけフルネームでさん付け)がまだお元気なうちに、試合の映像を見ることができて良かった。
この試合をした肉体が、今もリアルタイムで継続し続けているというだけで、体内の血がすこし動く。自分も人間なのだと、安心するような、興奮するような、不思議な気持ちになる。

いいなと思ったら応援しよう!