土偶を読むを読むを読んで
土器や土偶への入り込みが過剰になると、どうやら「自説」というのが顔を出してくるようだ。
土器をたった2,3個見ただけでも、自説めいたものは胸中をウネウネしだす。縄文生成物を見た帰り道は、それらに説得力を持たせるために、ああだこうだと少ない知識で補強を試みる。で、夕ごはんを食べたらだいたい忘れてしまう。
「土偶を読む」という在野的アプローチから編まれた本がすごく評価されたことに対する、アカデミックな専門家領域からの「おいコラ待て待て待て」というフルスイングの反論本だ。
強固な裏付けに次ぐ裏付けの釣瓶打ちで、ちょっと死体蹴りにすら見えてくるコテンパンっぷり。
これに再反論しなくちゃいけないのか…そんなことできるのか? と、まずは思った。
やはりというか、やむなしというか、「土偶を読む」を書いた方は、この反論本については沈黙を通しているらしい。これは無理もないかな、と思った。
僕は「土偶を読む」はまだ読んでおらず、この「読むを読む」しか読んでいない。
だからフェアな立ち位置ではない。
ただ、読みながらソワソワした気持ちになった。
思いつきを新発見だと思いこむのは、おそらく、縄文にハマった人間が必ず通る通過点のようなものだ。しかし四六時中妄想にやられてる僕のような奴にとっては、まだ何もしていないのに耳が痛くなるような話ばかりだった。
「想像の翼をひろげて」とは、考古学の専門分野では揶揄のニュアンスで使われる言葉らしい。これだけでもちょっと、近寄るのが恐ろしくなってくる。
いや、マジで気をつけよう。「縄文」が「黒歴史」とイコールになる前に。
ともあれ、たぶんまあ、おそらく、こっちの「読むを読む」の方が正しいのだろう。読んでそう思ったし、今でもそう思っている。
だが先日、辰野美術館で「顔」を見た時、ふと思ってしまった。
「確かに、栗かもな」
まあ、栗じゃなくても、栗的な木の実でもいい。やっぱりそんな風に見えたし、そう見るのが自然だと思った。
じゃあ、だからといって、栗の精霊だとは思わなかった。
事実はどうでもいいと思った。
この顔を作った人が、今まさに作っている環境では、回りに木の実が転がっていたりしただろうし、近くには実を湛える大きな木が見えたかもしれない。
インスピレーションの源泉とまでは言わなくても、セオリー通りに作ってる当人がマニュアル的に作りつつ、「そいえば、似てんな」と思うことはあるよなあ、とは思った。
そして、そう思った人の手が生み出す曲線に、栗っぽいニュアンスが思わず入っちゃうことも、そりゃ、あるだろう。
でも、それを事実にしなくてもいいんじゃないか、とは思った。現物を見て同じようなことを連想した身として。
かわいいなあ、豊かだなあ、おもしろいなあ、という気持ちに、事実の重みが足かせにしかならない時は、確かにある。
というか、ぶっちゃけてしまえば、確認のしようがないことを好き勝手やってるのが一番楽しい。
そこに事実がひっついてきて「これ本当じゃん!」と思っちゃった時の頭のスパークって、けっこう危険なのかもしれない。それが正解であろうが間違いであろうが関係なく。
オフィシャルに認められて、そこに自分の刻印を残す。そういうことを目指す世界はすごいなと思うけれど、それを志向した途端、短絡的な面白さは全部忘れなくちゃいけない。研究とは地道なものであって、センセーショナルな天才的人物が時間を短絡できる世界じゃないってことは、僕でもわかる。
でもなんか、土偶を栗だ栃の実だ里芋だと、たべられる植物に喩えるのってかわいいじゃないか、と思う。そのかわいさは、土偶のかわいさとなんか通底してるじゃん、とも思う。
かわいいまんまでいればよかったのに、どうやら「土偶を読む」の作者は、自著内で専門家に対してケンカを売りまくり、それに対してきちんとと反撃された、ということらしい。
やっぱりちょっと反省したくなるな。
なんか妙に自身がついちゃって、大上段に構えたくなったら、この件を思い出そう。どこにでも先人は必ずいて、そういう人たちをナメてはいけないんだと。
そして、僕も栗に見えたぜ!とも。こっそりと。