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土偶(の実物)を読む 駒ヶ根市立博物館 

駒ヶ根市立博物館の収蔵庫を、館長さん直々の案内で見せて頂きました。
ものすごい量の土器があったのですが、それらは全部後回しにして、この記事では一体の土偶と、館長さんとの話から派生した手前勝手な妄想を書こうと思います。
頭の中にあるうちに書いておかないと忘れそうなので。

問題の土偶がこれです。

本日の主役

注目したのは、土偶下部中央にある、縦長の棒。
これ見て思わず言っちゃったんですよね。

「これ、男じゃないですか?」と。

館長さんは立場上、アカデミズムに基づいた視点で話してくれます。だからきっぱりと、

「いや、土偶は女性だと言われております」とクールな回答。

そうですよね。おっしゃる通り、存じ上げております。しかしですね、これ、あからさまに元気な男性器じゃないですか。そう見えません?

「いえ、この線は正中線といって、赤ちゃんをお腹から出した傷と言われています」

いや、傷っつっても、これ明らかに「凹」じゃなくて「凸」にしか見えないよな…

そんなことをウダウダ楽しく話してその場は終わったのですが、家に帰って写真を見ているうちに、どうも、

「縄文人、凸と凹、あんまり厳密に考えていないんじゃないか?」

という気がしてきたんですね。そこに必要なものが配置されていれば、粘土を削ろうが盛り上げようが、意味合いの大枠としては同じでしょう、と思っているフシを、なんとなく。

たとえば南箕輪の、僕が勝手にあしゅら男爵と呼んでいる、県宝の有功鍔付土器に施されたレリーフ、これも、正面像とバックショットがごっちゃになっているように見えるんです。

何度見ても意味わからん

この「別にあちこち前後互い違いになってても、全体で見りゃわかるだろ?」という感覚って、あまりにも早すぎるキュビズムとも言えるのだけど、ひょっとしたらこれ、別に芸術でも間違えた訳でもなく、そもそもこだわっていなかったんじゃないか、と思ったんです。

じゃ、なんでこだわっていなかったのか。
ここから勝手な妄想がトグロを巻き始めます。

よせばいいのに昨年の話題作「土偶を読む」に追随して、わたくし自ら地雷原にダイブします。

でも一応、実物を見てますからね。妄想はショボくても、思考になるまでの経路だけはモノホンです。



縄文時代は定住生活が始まった時期と言われています。
それまでナウマンゾウとかを追ってた狩猟民が、温暖化とか色々あって、一箇所に住み始めた時代です。
とはいえ、実際に国の体をなしはじめるのは次の弥生時代からなので、言ってみれば縄文時代は、定住開始期でありながら、本格定住までの長い長い移行期とも言えるんじゃないかと思っています。

移行期には色々な混乱がつきものです。
特に、移動専門の民族が定住することによって生じた混乱は大きかったはずです。実生活ばかりでなく、世界に対する向き合い方にも、かなり大きな変化と混乱はあったと想像します。

移動民族だった頃はおそらく、人間は自然の一部として自身を捉えていたはずです。ほぼ物を持たず、自分の老廃物も食べかすも全て、流転の一部だったはずです。

定住するということは、「われわれの世界」と「自然界」にラインを引くということです。自分たちだけ、自然の流転から脱出し、独自のサイクルを形成するということです。

(妄想も甚だしいですが、僕はこの時の「うしろめたさ」があらゆる宗教の始まりだと、勝手に思っています)

ラインを引いて、区別する。
これは、移動民族にとっては必要のないことです。全てがシームレスに繋がっているからこその自然ですから。
しかし、縄文人はそこへ意図的な区別ラインを引くことで、人間と自然、という二項対立を発生させたのです。

二項対立が発生したということは、正解と不正解が発生したということです。

だとしたら先の土偶、お腹に傷をつけるのなら、やはり「凹」の刻みを入れるべきなのです。
でも、しっかり「凸」で描写されてる。

なんか、これ作った人、実は凸と凹を曖昧にしていた訳じゃなくて、そもそも二項対立を受け入れていなかったんじゃないか、と思ったんですね。

「別にどっちでもいいだろ」というのは、だらしない訳じゃなくって、二項対立によって人間が自然から分断される以前の状態をちゃんと見据えていたのではないかと。

そして、「どっちでもいいだろ」を土偶に施すことで、人工物である土偶に、自然の性質を練り込んだのではないかと。
アミニズム以前の「かつては自分たちも自然の一部だった」という証拠というか言い訳というか思想的痕跡というか、とにかく「どっちでもいいだろ」をしっかり練り込んでようやく、土偶に神秘が宿る、みたいな。

これを現在の、二項対立が骨の髄まで染み込んだ僕らがやったら、単なるあざといシミュレーションで終わってしまう。
けれど移行期の、まだ移動生活の精神が残っている縄文人がやったとしたら、ホンモノの真実味が宿りそうな気がする。「自然である人間」が、冷たい人工物に「非・二項対立」を刻印するのだから、もう何重にもメタが重なっている。

というわけで、妄想は以上です。
書いてみると、別に当たり前のことをクドクド考えていただけのようにも思えますが、それでもひとまず、土偶と土器からズルズル引き出された妄想の一例として、収蔵庫の大量土器を載せる前に書いておきます。大変失礼致しました。

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