LEGO® ムービー
こんなご時世に「まともな社会人」と言われても何を指すのか、もう曖昧になりつつあるけれど、少なくとも自分はもうそれを目指すことはないと思う。もちろん、これから本気でなろうとしたって、もう無理なんだけど。
社会のレールから外れて、そこからやれ原発だのコロナ渦だので、自分が社会にとって有用なのかどうか実感が持てなくなった、というのは自分も同じだ。いわゆる『社会』にほとんど接続していないのも手伝って、まあまあの役立たずだな、という自覚は持っているつもりだ。
たぶん社会に役立つ人を指して、有能、という言い方は正しい。じぶんの能力を、社会に役立てることが出来る人たちだ。僕には(ほんとうに)わからないのだが、おそらく社会は有能な人で溢れている。役割を任されているということは、きっと有能の証明だ。
そうではない日々を過ごしつつ、最近は新たな問題に直面している。加齢だ。50を目前にして、身体のあちこちが少しづつ錆びついてきた。永久に保つはずだった各部の固いところが崩れ、目はかすみ、加速度的に疲れは増している。反応速度は落ち、精神も凝り固まり、つまんないことしか言えなくなり、心の広さはもうない。日を重ねるごとに有能さとは程遠くなってゆく。改善の見込みはない。
いくら自虐的だからといって、認めたくないことはある。が、認めざるを得ない。
自分は、無能だ。だから社会に必要とされていない。必要とされていないから、無能だ。以下、それを延々ループ。
そしてダメ押しになるが、それを恥じるほどの向上心もとうに消え失せている。つまり、全く落ち込んでいない。そんなザマでありながら別に何もせず、ただ、どうしようもないなと途方に暮れているだけ。それが毎日だ。
だから、一度見た映画をまた見たりする。サブスクはありがたい。連日その恩恵にドップリ浸かっている。
昨日、「LEGO®ムービー」という映画を観た。二回目だ。
すごく良い映画だったことは覚えている。だからまた観た。
すぐに目が離せなくなった。
主人公は、無能だった。
自分を重ねようかと思ったが、それを遥かに超えて無能だった。マニュアルがないと考えることもできない。全てにおいて風見鶏で、自分の意思がない。だから魅力が全くない。つまり、誰の記憶にも残らない。明るくおちゃらけているのは、日々を最高の気分で終えるためのドーピングだ。そして、良くも悪くもそれがおおむね上手いこといっちゃってる。
そんな主人公がエクスカリバー的なものを手にし、そこからすったもんだの英雄譚…といった流れの作品だが、未見の方はこんな作文を読む前にご覧頂くことをおすすめします。素晴らしい作品です。
言うことを言ったのであとは盛大にネタバレを含める。
無能の象徴ともいえる主人公は、コロシアムのようなスペースで、国の重鎮たちが見守る中、一世一代の演説を打つ。
彼は情感たっぷりに前置きを語る。自分がいかに無能であるかを。
で、その前置きを経て本筋が語られる筈が、無能っぷりの告白があけすけ過ぎて、本筋が語られる前に聴衆が全員ブチ切れて場はオジャンになってしまう。
つまり、その告白に耐えられないくらい聴衆は全員有能だったのだ。皮肉ではなく、この世界ではそれぞれがそれぞれの意思で、いろんなものを作り出せるのだ。一人ひとりが創造的で、それを現実に反映させることができるという、すごい世界なのだった。
にもかかわらず、世界に危機が訪れているのだ。これだけ有能者で溢れているのに。
だとすれば、この世界唯一の「無能者」である主人公の中にヒントは隠されている。
そして、とうとう打つ手がなくなった有能者たちは、主人公の声に耳を傾ける他なくなる。主人公はこう言う。
「みんな、マニュアルをちゃんと読もうよ。独創的なのもいいけれど、力を合わせればすごいものが作れるんだ」
まあ。泣けましたね。
ともすれば社会主義に傾きかねない主人公の訴えは、なんだか固定観念を突き抜けてくる強靭さがあった。
それは主人公が無能に生まれ、無能を実行し、無能を積み重ねる日々から得られた、無能でなければ得られない人生の財産だった。そうであるからこそ誰も見向きせず、それが土壇場で陽の目を浴びる。そして、陽の目を浴びたとてそれは、しごく真っ当な、当たり前すぎて誰も意識しないであろうことには変わりない。そこが美しかった。
かくしてすったもんだの末、主人公は世界の壁を突き破り、この世界の造物主に出会う。造物主は小さな男の子で、主人公を含む世界の全ては、オトナである造物主の父親が組み上げた、部屋を埋め尽くす超マニアックなレゴタウンで、息子はその中でこっそりオリジナルのメカやら何やらを作って遊んでいて、それがこの世界でした。というネタバレ。
しかし、思い返すとこの男の子が世界を救う勇者として「無能なひとり」を選んだということがずいぶん泣けてくる。そして、そのこと自体が(考えられないほど)英雄的だったことが後ほど証明される。
おそらく父親はMrパーフェクトだ。なにひとつ敵う気がしない。エディプスコンプレックスが昇華されることはたぶん、ない。主人公の男の子は去勢と自由の間で揺れながら、父親の緻密なレゴタウンで遊ぶ背徳の日々を繰り返し、それはやがてバレてしまう。
父の厳格さで文字通り「固められ」そうになる男の子はしかし、父のレゴタウンに独創性の痕跡を残していた。そこには父親が忘れていた全てが詰まっており、発見した父親は童心の痕跡を自らの内に見出してしまう。それにより父親と息子の立場は逆転する。
かくして父親は「リアル童心」である息子に、不安げな様子で向かい合う。
主人公=息子は、世界で最もクリアな救世主であることが要求される。
なぜなら、そこで「許す」ことこそが最も必要かつ英雄的な行為だからだ。
そして、そうできることの条件こそが、「無能」であった。
という(拡大解釈含め)すげーいい話なのだが、これが作られたのは2014年。今から9年前だ。
9年後の今がこんなことになってるなんて、誰も想像がつかなかった。
急激に進化したAIは、加速度的に人間の「有能さ」を無化しつつある。「人間の有能さ」を武器にしてのサバイブは日を増すごとに無理ゲーになるとはもう決まっていると言っていい。ひっどい話だ。その有能さをどれだけ努力して手に入れたと思っているのだ。どれだけ勉強したと思っているのだ。でもAIはメカだからなんも思わない。それがどうしたというんだ?
いろんなことは淡々と進み、極度の有能さはAIにとって替わられ、じゃあかつての優位性を補填できるほど「残された人間性」に確固たる有用さはなく、やがて無能化されてしまった有能な人たちがあふれかえることになるのだろう。
レジスタンス化した元・有能者たちは爆弾を作るかもしれない。秘密結社を作るかもしれない。世界に一矢報いるかもしれない。
しかし、はなっから無能だった我々が作るものは決まっている。
あの「二段ソファー」だ。
失われつつあるカオスは、無能者による無為な、徹底的に非生産的なノイズ発生により保存され続ける。人間は負けない。そのために、何の役にも立たない行為を繰り返すのだ。