こちらあみ子
アマプラ、やめようとするといい映画をぶっこんでくるので、積極的に言っていきたいと思う。アマプラ解約!アマプラ解約!
映画「こちらあみ子」一切笑えなかった。きつい。最後まで緊張感がとれなかった。でも凝視してしまった。
※以下、内容に触れてます。
主人公については、僕自身が「偽装したあみ子」でもあるので、「あるあるネタの羅列」に見えた。
障害云々以前に、ちっちゃいうちに食らう『去勢』の機会を逃しちゃったら、あんな感じになるよ誰だって。と、疑いなく思っている。
彼女の障害は、分別つく年頃になって「去勢されないためのバリア」として機能しているように見えた。良くも悪くも。だから彼女の本質と障害はあまり関係がないと思う。
主人公はいろんな意味で美しいのだけど、ここでは割愛する。原因がどうであれ、社会性を結べず興味に突進する生き方になってしまったら、あとは行くところまで行くしかない。非常にデジタルな、スター性の強い生き方だ。当たり前だが、そこから共感は生まれない。刹那的に見えるのは他人の視点からであって、本人の世界に悲劇性(=物語性/文脈)はないのだから。
そうなると、こちらの視線は周囲の人々に向く。
まずは家族だ。あみ子の人生はスター街道だが、家族にとっては地獄だ。
なぜ地獄か。それは家族が「希望を捨てなかった」からだ。
悲しいことにこの家族、3人とも「超やさしい人格者」なのだ。
超やさしい人格者たちは、理想のニューファミリーを築く資格がある。だから3人はチャレンジしたのだ。あみ子だって芯はやさしい子で、私達はそれをわかっているのだからと。
僕自身があみ子側の人間だからよくわかる。ある種の人間には「自分の文脈」しか存在しない。自分が行動するための文脈なのだから、自分の文脈以外を必要な理由がわからないのだ。
だから、あみ子は家族の物語には参加しない。世界の全てに対して彼女は平等に「点」として接する。点とは現在のことだ。
文脈を共有できそうなのに、絶妙に話が通じない存在が家族にいれば、理想のニューファミリーの成立は難しい。必然的に、スターに奉仕するシステムが構築される。人格者ファミリーの中では、最弱の存在は最強の存在に反転される。それが続けばいいけれど、人はそんなに都合よく出来てはいない。
表面的に、家族は崩壊する。実際に惨憺たるものだ。
だが、崩壊に見えるそれは、家族3人が各自それぞれが向き合って、「正しく自分を守った」結果だ。
美しい理想と一体化している人は、自分自身がラスボスのようなものだから、ことが行き詰まった時、自己破壊をしないと次に進めない。だから母は狂い、長男は刃となり、父はモノと化した。
「言葉が通じる相手じゃない」のだと思い知るのは、いつも限界を少し超えた時点だ。真面目に生きる弊害は、みんな言葉(=共通の物語)が通じると思ってしまうことなのだ。
三者三様の「ぶっこわれ」は、それぞれがそれぞれの文脈を取り戻す行為で、それは必要なプロセスだと思う。
そうまで言えるのは、僕自身が似たような状況だったことがあるからだ。あみ子側の人間なのに、逆の立場を経験している。
人は人を変えられないんだと思い知ったら、あとは手放す行為が「どうしても」必要になる。手放したくないし、手放してはいけないのだけど、それがどれだけ社会的にアウトだったとしても、「自ら」手放すことが必要だ。自分に課した全責任の総決算が「投げ出すこと」で終わるなんて、ちょっとでも責任感があれば耐え難いけれど、ことが限界まで追い詰められていると、それら一連の手放す行為を、まるで映画を見ているように感じたりする。自分でやっていることなのに。
自分の場合は、結果論としてそれが最良の選択になった。運任せのところもあったけれど、手放した事実が後の生きる指針になるなんて当時は想像もつかなかった。
だから終盤、おばあさんの家から去ってゆく父の車の後姿に、少し希望のようなものを感じた。勝手な想像だが、あの父親は、ひとりでそれを決めたんだと思う。遠いも近いも、距離は人ぞれぞれだ。あれで終わりじゃない。
最もファンタジーを感じたのは、転校直前に丸坊主の子と二人、教室で交流する場面だ。
あみ子と「まともに」言葉を交わすうち、丸坊主の彼に神が降りる。
隣にいるあみ子がはじめて「他者の視線」を獲得しようとする刹那、彼は最もエレガントな形で、それを自らの内に閉じ込める。
それによってあみ子の『あみ子性』は保たれるが、社会生活者としては千載一遇の機会を逃したことになる。大損失だ。
しかし丸坊主の彼は、「生き物としての不条理ともいえる直感」で、あみ子に芽生えかけた他者の視点をスポイルして飲み込んだ。彼に一瞬降りた神は、あみ子の将来の選択権を握り、丸坊主の彼は自分の全責任をもって決定した。美しい場面だった。
つまるところ、登場人物それぞれが自分で自分の人生を決定してゆく映画なのだけど、それにしちゃ精神的な圧迫感が強かった。
こういうことを可視化して良かったのかどうなのか、自分にとってもどう捉えたらいいのかわからない。「みんなちがってみんないい」は、それなりの傷や犠牲も伴うのよって話か。
幸せじゃなくっても別にいいんだけどな、とは個人的に思うのだけど。