郷土館に行けないストレスを解消するため、縄文土製品をAIで生成する
土器見たい!でも見れない!キー!
タマネギの定植に追われまくっていて、土器を見に行く時間がない。郷土館も博物館も、行きたいところはたくさんあるし、すぐ近くにだって見逃した収蔵物がたくさんあるのに。
夜は農作業ができないので、いっくらでも時間がある。だけど、終夜営業の郷土館なんて聞いたことがない。
だからもう、悔しいので、AIで縄文っぽい土製品をたくさん作ることにした。
僕がよくやる方法で、同じ画像内にものをたくさん並べると、相互が干渉しあって、不思議な統一感というか、偏見助長というか、AI側の思惑シナジーを表出できるのでとても楽しい。
これらはAIによる「なんとなくの印象」を集積したものであって、現物の重みはない、というより、存在感がゼロだ。
どこか蒸気のような、吹けば消し飛んでしまうような儚さがある。
そこにロマンを感じようと思えばできるけれど、AI画像だと知った上でのロマン構築はどうも寒々しい。
だけど、AIという「わけのわからん」存在が、「とにかくなんか考えて」作る、という謎感の強い生成過程は、リアル縄文遺物に対する「なんなんだこれらは」という謎感、もっと言えば「全くわからん」という印象は同じなのだ。
もちろん「縄文土器」の生成を試してみたこともある。
ただ、どうしても日本ルーツの雰囲気をことごとく無視した東洋エキゾチック土器になってしまう。
縄文土器の「ぽさ」は、おそらく素朴と実直のバランスがあまりに独特なのだろう。粗雑と勤勉と、わずかな創造性と、計画性と行きあたりばったりと、ミステイクになりそうな要素があたりまえに連綿と展開する縄文土器の雰囲気は、思ったよりもAI生成の過程と遠い。もっとシステマティックにパターン化すれば簡単にできそうな気もするけれど、そうなってくると機械的な印象とバッティングする。
こういった「果てしなく遠いニアピン」問題も、土製品という曖昧なカテゴリーにすれば無問題だ。
AI生成画像は、ちょっと無理させると造形が雑になる。
そこを狙ってたくさん作る。
AIの生成物は、なげやりになった形にこそ何かが宿ると思っている。若干オカルトかもしれないけれど、なげやりの隙にこそ、想像を投影できる。
そして、投影できたって、相手はデータの蒸気が紡いだ幻影だから、おもしろいくらい記憶に残らない。
一生懸命がんばって、結果的にどうでもいい。
なかなかの絶望的な流れだけど、風通しの良さは抜群だ。
「なんかそんな感じだったよね」で過ぎ去ってゆく、印象ゼロの生成物たち。
AIはどんどん意味の模造生成器に近づいているけれど、できればこの、無意味性、蒸気性、詠み人知らず性は、どこかに残しておいてほしいと思っている。
寂しいときにAI画像を生成すると、また別の寂しさがあって、深夜に無人の町を徘徊しているような気分になる。
これはこれで、なにかのデトックスになっているのかもしれない。