士師記を学ぼう①
士師記1-5章 (士師たちの時代)
ヨシュアの次の時代は士師たちの時代です。士師とは当時の軍事的また政治的指導者で部族の長の役割をした人々でした。
1.カナン人を追い出せなかったイスラエルの民
ヨシュアともにイスラエルの民はヨルダン川を渡り、約束の地カナンの全地を取り、12の部族にそれぞれ相続地として割り当てられました。
ヨシュアは、カナンの大きな町々で、次々に敵を打ち倒しましたが、まだ取るべき土地は残されていました。多くの未占領地が残っていたのです。そこにはまだカナン人が住んでいました。
そのためヨシュアは最後の民への言葉として、
①モーセの律法を守ること。
②残っているカナン人と交わらず、彼らの神々を拝んではならないこと。
③深く慎んで、自分自身に十分気をつけて、神さまを愛すること。
をイスラエルの民に伝え、それぞれの部族が与えられた地で、カナン人を追い出すことを求められていました。それは彼らの不道徳や性的な不品行、子供をいけにえにするような偶像礼拝から遠ざけて、その悪い影響を受けないようにするためでした。
実は、ヨシュアの時代に全てのカナン人を追い出すことをしなかったのは、ヨシュアの次の世代が、この約束の地カナンを獲得する戦いは神さまの戦いであって、神さまに頼ることを忘れないようにするためでした。
しかし士師記には、彼らイスラエルの民が、ヨシュアに言われたことを守れずにカナン人を追い出せなかったことが記されています。
2.主を捨てて堕落するイスラエルの民
ヨシュアの時代を知らない次の世代になると、彼らは、主であるまことの神さまを忘れ、カナン人の土着の神々であるバアルとアシタロテを礼拝するようになります。
カナンの土着の神々については、次に簡単な図を示します。
彼らは、カナン人のようになり、他の神々(バアル、アシュラ=アシェラ、アセラと表記など)を拝んで、まことの神さまの怒りを買います。そして神さまは、彼らを懲らしめるために周囲の敵に彼らを征服させます。
苦しみによって彼らが自分たちの過ちを認め、神さまに悔い改めると、神さまは敵を倒して民を救う士師(さばきつかさ)を立てられます。それでその時代は平和になるのですが、平和が続くと民たちは再び神さまを忘れて他の神々を拝むようになり、同じことの繰り返しになっていきます。
3.士師としてたてられた勇者たちと女預言者デボラ
イスラエルの民たちの堕落と、神さまのご計画がなるその繰り返しを聖書のテキストから追ってみましょう。
懲りないイスラエルの民のために、神さまはオテニエル、エホデ、シャムガルという士師を立てられました。
ここでは、神さまが、女預言者デボラにバラクという協力者を与え、雨によるキション川の氾濫を起こし、地はぬかるみとなって敵の長シセラが戦車を使えないようにされました。イスラエルの民のためにことごとく神さまが働かれていることが分かります。
懲りないイスラエルの民ですが、その原因は何でしょう。
一つは、私たち人は忘れやすいということです。イスラエルの民は神さまによってエジプトから救い出され、40年の荒野の旅を守られ、いま約束のカナンの地が与えられています。その土地の獲得に神さまが先頭に立って戦われました。しかし、そのことが忘れ去られています。
でも私たちも、このイスラエルの民を軽んじることのできない同じような存在であることを思わされます。私たちもイエス様を信じて救われたその時の喜びと感動を忘れがちなものです。それを幾度も思い出し、どのような方を信じたのか、自分の神さま、主として仕える決心をしたのか、初心に帰ることの大切さが教えられています。
もちろんこれは、信仰者また信仰に限らず、すべての人や社会に共通することでしょう。
また、懲りない原因の二つ目は、私たちは、目に見えるもの、近くにいる人から影響を受けやすいということです。
イスラエルの民は、追い出すことができなかった、カナン人の習慣や文化から悪い影響を受けました。
彼らは土地が与えられたことで、遊牧民から農耕民に変えられました。しかし、これまで作物を作ったことはありませんでした。当然、近くにいたカナン人の仕事を見聞きして覚えたことでしょう。そしてカナンの人々は、豊穣と天候の神バアルを拝むのです。
彼らの作物が豊かに実り、それを目にしたイスラエル人が、自分たちの作物が豊かに実ことを期待して、彼らの神バアルに近づき、自然と拝むようになっていくのは想像に容易いですね。
だからこそ、追い払うように言われていたのですが。
私たちも見えるモノ、聞こえてくる世のニュース、多くの人が良いと言っているものに影響されています。
しかし、聖書の書かれている神さまの御言葉に照らして、神さまの喜ばれないことであれば、それを遠ざけ、また自分から離れて、立ち切る大切さを教えられています。
世が良いというもの、世の基準は常に変わります。しかし、神さまの御言葉である聖書は変わることがありません。1600年かけて編纂され、その後2000年の歴史、数えきれない人の目を通過しても変わることのない神さまの基準を私たちに伝え続けています。ここに完全な道徳、完全な正しさがあるのです。
最後に、堕落を繰り返し、どんどん落ちていっても懲りないイスラエルの民ですが、私たちは彼らを笑うことはできません。
アダムから引き継がれた罪の性質もっている私たちが、神さまの基準であるお言葉に従わず、神さまから離れて歩めば、同じように悪い方へ悪い方へ偏る歩みとなっていくのです。
しかし、何度も士師をたててくださる神さまは、私たちにも、いつでも神さまに立ち帰る機会を与えてくださっています。今罪ある私たちがイエスさまの十字架が、自分の罪の身代わりの死であり、お墓にいれられた後3日目によみがえられたことを信じる者は誰でも罪赦されて神の子とされ、神さまに近づいて、神さまと共に歩むことでこの世にない平安をいただけるのです。