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士師記を学ぼう|士師記③

士師記11-16章(士師エフタとサムソン)


 士師ギデオンが40年イスラエルをおさめたあと、息子の1人アビメレクが3年間おさめますが、他の兄弟69人を殺害した報いを受けて滅びます。
 そのあと士師トラが23年、次の士師ヤイルが22年、イスラエルをおさめました。

 しかし、民たちはまた、神さまの前に悪を行い、怒りを発した神さまは、周囲の敵ペリシテびととアンモンびとの手に彼らを渡します。

 そして、イスラエルの民たちが神さまに悔い改めて助けを求めた結果、起こされた士師がエフタでした。


1.やくざの頭、ならず者エフタ

11:1 さてギレアデびとエフタは強い勇士であったが遊女の子で、エフタの父はギレアデであった。
11:2 ギレアデの妻も子供を産んだが、その妻の子供たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して彼に言った、「あなたはほかの女の産んだ子だから、わたしたちの父の家を継ぐことはできません」。
11:3 それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。

 衝撃的な始まりです。今度の士師エフタは勇者ではありましたが、ならず者(口語訳ではやくざ者)、つまり略奪を生業とする悪党集団をおさめる頭がエフタでした。

 ギルアデびととは、ヨルダン東側のギルアデ地域に住む人々という意味です。私たちが関西人とかというのと同じような感じでしょうか。


 イスラエルの民たちが、神さまから離れて罪を重ねていくうちに、エフタのような、ならず者を士師にたてるしかほかに手がなくなっていたことが示されています。

 今でいえばなんでしょうか。自民党の総裁を○○組組長にお願いするような状況でしょうか。
 
 かなり無茶な状況ですが、イスラエルの長老たちは、このエフタにアンモンびとと闘う大将になるようにお願いし、エフタは引き受けます。


 エフタは、戦いの前に、アンモンびとの王とやり取りし、「イスラエルが我々の土地を奪い取った」と主張するアンモンびとの王に対し、エフタは過去の歴史から「この土地はかつて出エジプトの際、イスラエルの民が占領した土地であり、土地を奪おうとしているのは、むしろあなたたちアンモンびとだ」と整然と正論を説きました。

 当時聖書はなく、歴史的な出来事は口伝によって伝えられていましたが、なんとエフタは、それをよく理解し、知っていました。
 しかし、アンモンびとの王はこれを受け入れず戦いになります。

 ここで、エフタは敵であるアンモンびととの戦いにおいて誓願を立てます。これは、神さまとの特別な取引で、自分の願いがかなったら、あることをする、またはあることをしない(もの断ち)ことを約束します。
 一度誓願したことは、破ることも取り消すこともできません、必ず約束したことを果たす必要がありました(民数記30章、申命記23章)。

11:30 エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、
11:31 わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。

 (燔祭=傷の無い一番よい家畜の全焼のいけにえ) 

 エフタはアンモンびとをみごと打ち破りますが、神さまへの誓願が悲劇を招きます。

11:34 やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。

  ここでは、エフタだけでなくそのひとり娘も「誓願」の意味。その重さをよく知っていて、それに従った、つまり神さまに従ったことは記されています。


 エフタは、ならず者の頭ではありましたが、神さまを知り、神さまを恐れ、神さまに従う心があり、神さまはそんなエフタを用いられました。


 エフタが誓願したことについては、神さまではなく、アンモンびとを恐れた結果であり、また、自分で判断して自分の思いでそれが良いと思ってのことだったでしょう。
 誓願の前に、ギデオンのように神さまに聞いていれば違った結果になったのではないかと思われます。


 エフタがイスラエルを6年おさめたあとに、士師イブサン、エロン、アブドンがたてられてそれぞれ7年、10年、8年イスラエルをおさめます。

 しかし、アブドンの死後、イスラエルの人々がまた神さまの前に悪を行ったので、神さまは彼らを40年の間ペリシテびとの手にわたされます。

 ここで次に登場する士師がサムソンです。


2.ナジル人、サムソン

 サムソンは、信仰に歩む両親からナジル人として生まれ育てられます。さきのギルアデ人とは違い、ナジル人とは、神さまへの献身を約束した人(神さまにささげられ聖いものとして用いられるようになる)で、

  ①ぶどう酒、強い酒を飲まないこと 
  ②かみそりを頭にあてないこと 
  ③死体に近づかないこと 
  ④汚れたとされる食物を食べないこと。

が求められます(民数記6章)。

 エフタとは逆に、サムソンのその生まれ、始まりは、神さまが立てられる士師としてふさわしいものに見えますし、神さまは、サムソンに怪力という賜物を与えられます。

14:6 時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。

15:15 彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。

 しかし、サムソンのふるまいは、まったくナジル人にふさわしいものではありませんでした。

 ナジル人は死体に近づくなと言われていましたが、サムソンは躊躇なく死体に触れています。

 また7日間続く祝宴(口語訳でふるまい)を開きます。当時の祝宴はお酒の席そのものでしたから、その祝宴が7日間続く間には、死体に触れる事に躊躇ないサムソンは、お酒も口にしたのではないかと想像します。

 聖書は、暴力的で、傲慢で性的にも気ままなサムソンの行いを隠さず記しています。

 先に見た、ならず者エフタの方が、よほど神さまを恐れ神さまに心が向いていたと言えます。

 エフタの場合は、アンモンびととの戦いの前に《時に主の霊がエフタに臨み(士師記11:29)》と1度記されていますが、サムソンの場合は、《時に主の霊が激しく彼に臨んだので(士師記14:6、14:19、15:14)》と繰り返し書かれています。

 サムソンは人並みはずれた力を与えられましたが、それは《主の霊》《激しく臨んだ》結果であり、それがなければ、神さまの働きをすることができないほどに、普段の行いに問題がありました。


 サムソンは士師として、ペリシテびとからイスラエルを解放するために怪力が与えられていましたが、愛した女性デリラのせがみと涙に負けて、サムソンは、《もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう。(士師記16:17)》とその力の秘密を明かしてしまいます。

 ペリシテびとから買収されていたデリラは、策をこうじてサムソンの髪の毛をそり落とした上で、ペリシテびとを招き入れます。
 サムソンは力を失い、ペリシテびとに両目をえぐり取られ、ガザ(ペリシテびとの中心都市)に連れて行かれ、青銅の足かせをかけられて獄屋で臼を引かせられることになります。

 ある時、ペリシテの領主たちが彼らの神に盛大な犠牲をささげるお祝いに集った時に、余興の見世ものとしてサムソンは皆の前に引きだされます。

 その時には、サムソンの髪の毛はまた伸び始めていました。それはサムソンにとっての悔い改めの期間であったのでしょう。
 完全な悔い改めではなかったようですが、しかし、この時サムソンははじめて自分から神さまに祈ります。

16:28 サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。


 主はその祈りを聞かれました。自己中心的な願いでしたが、神さまはペリシテびとを懲らしめる意味でサムソンの願いを聞かれました。

 そして、サムソンが、再び与えられた怪力で家(神殿)を支えている2本の柱を引き寄せたので、神殿が崩れ、ペリシテの君主たちをはじめ3千人以上のペリシテびとがサムソンとともに犠牲となりました。
 この時サムソンが殺したペリシテびとは、生きているときに殺した者よりも多かったのです。


 本日のところ、エフタは、ひとびとから略奪をする、ならず者たちの頭で神さまから遠い者でした。しかし、神さまを恐れ従う中で、士師として神さまに大いに用いられました。

 サムソンは、神さまに近く生まれ、育ちました。神さまから人並外れた力もいただいていました。しかし、神さまを恐れず、自分の思いを優先して神さまから離れる中で、大きな失敗をします。
 しかし、神さまを求める中で、神さまは最後に神さまの大きな働きにサムソンを用いられました。

 どのような境遇であろうとも、過去にどんな過ちがあろうと、神さまに心を向けて、神さまを恐れて歩むとき、神さまは祝福を与え、大いに用いられます。

 また、たとえ、多くの賜物、才能をいただいていても、神さまから離れて、自分の思いを優先して、与えられたものを自分の目的ために使えば、神さまは祝福も導きも与えられません。そして罪を重ねる歩みに向かっていくのです。


 イスラエルの民も、主なる神さまへの背信を繰り返す中で、エフタのように神さまから離れて生活し、サムソンのように神さまに祝福されながら、神さまに背を向けて歩むような民が多くいて、ヨシュアや、はじめの士師たちのようなイスラエルの民は、もはやいなくなっていたのでしょう。

 だからこそ神さまは、エフタやサムソンのような人を士師として立てるしかなかったのかもしれません。

 もしそうでなかったとしても、神さまは、エフタやサムソンのような人が、神さまの働きをする姿から、イスラエルの民に自分をよく顧みて神さまに立ち返るように教える意味があったのでしょう。

 士師記を通して与えられている警告は、人が、自分の目に正しいと思えるところをおこなうときに、神さまから離れ、罪を重ねる歩みに向かうということです。


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