![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/105908265/rectangle_large_type_2_45afc1103aca572fd4a5f79b2aacfa2f.jpeg?width=1200)
ヨシュアを学ぼう④〜約束の地を絶やさないために〜
ヨシュア記23-24章
ヨシュア記23-24章では、神さまが、敵を取り除かれて、戦いは止み、民たちが建てなかった建物に住み、自分でつくらなかった畑から収穫して食べ、安息が与えられている様子が伺えます。
ここで、神さまから民たちへの教えがヨシュアを通して3つのことを語られています。
![](https://assets.st-note.com/img/1684418297522-ySDBihSkYj.jpg?width=1200)
①モーセの律法を守ること。
23:6 それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。
②残っているカナン人と交わらず、彼らの神々を拝んではならない。
もし従わなければ、この地から滅びると23章12節以降で言われています。
23:7 あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。
③深く慎んで、自分自身に十分気をつけて、神さまを愛すること。
23:11 それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。
②番目の《…彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。》は、モーセの律法の中で、《あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(出エジ20:3)》と、モーセの律法の中で神さまにかかわることをイエス様は一言でまとめて、「神さまを愛しなさい」と言われています。
つまり、3つ言われているのですが、であることが分かります。
このヨシュア23:11は、新改訳2017の訳ではこのようになっています。
だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。
この箇所では、新改訳2017は、原文の意味がより伝わります。
《自分自身に十分に気をつけて、》
これはどういうことでしょうか。
どうすれば、私たちは自分自身に十分に気をつけて、神さまを愛することができるのでしょうか。理解を深めるために3つお話しします。
![](https://assets.st-note.com/img/1684419777244-nunY7tALaA.jpg?width=1200)
1. 主の恵みを忘れない
ヨシュア記24章をみると、アブラハムにさかのぼって、主なる神さまがイスラエルの民にここまでしてくださった恵みが網羅されています。そしてヨシュアは民にこう言います。
24:15 もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。
24:16 その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。
主に仕え他の神々に仕えるなど決していたしません。と答える民に主に、ヨシュアはもう一度聞きます。
24:19 しかし、ヨシュアは民に言った、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。
24:21 民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
さらにヨシュアは言います。
24:22 そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。
24:23 ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。
24:24 民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。
![](https://assets.st-note.com/img/1684422185166-VEsEAx1Kr8.jpg?width=1200)
ヨシュアは、民の答えに満足していないようです。実際、こののち、イスラエルの民は神に従えず、約束の地を失ってしまうのです。
ヨシュアが民たちの答えに満足しなかったのは、民たちの答えが「自分の力で」仕えます。自分たちはできます。という答えだったからではないでしょうか。
ヨシュアは、これまでの民の歴史を振り返り、神さまの恵みを振り返っていました。また、この約束の地の戦いも神さまの戦い、神さまが戦ってくださった勝利でした。
自分、自分の自分自身ではなくて、「主の恵みを覚えます。主がすべて与えてくださいました。これからもこの主に頼ります。主あってこその自分です。」これこそ、ヨシュアが、また神さまが喜ばれる答えだったのだと思わされます。
旧約聖書の詩編の一節を紹介します。
口語訳
詩編103篇2節
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
新改訳2017
詩編103篇2節
わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
2. 自分自身に気をつける
この「自分自身」と訳されている言葉には、魂やいのちという意味もあります。
2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
![](https://assets.st-note.com/img/1684422709343-O2MsWWlV2w.jpg?width=1200)
私たちは、いのちの源である神さまの息で神さまにいのちを与えられました。そして特別に神さまのかたちに、他の動物とは全く別に造られました。そしてそれは、非常に良かったのです。私たちは素晴らしい神さまのかたちに造られて、神さまが私たち1人1人に目的をもってこの世に置かれたのです。
このいのちは、神さまがくださったいのちであり、神さまが目的をもって与えてくださったいのちです。だから自分のいのちはいつも神さまと共にあり、自分のいのちは自分一人のものではないのです。そのことをいつも意識して歩むことが自分自身(魂、いのち)に気をつける歩みなのです。
3. イエス様の十字架にあらわされた神の愛
今、私たちには、罪があるので、素晴らしい神さまのかたちに造られた自分も、神さまが置いてくださった本当の目的も見えません。
聖書が言う罪は、神さまを知らず、神さまに従えずに歩む歩み、また、自分は悪くないとか、人を赦さないといった、自分本位、自己中心の考えから来る心の闇のことです。
私たちは、この罪を自分で処理することができません。神さまが創られた神のかたちである本来の自分に、自分では戻ることができないのです。
新約聖書 コロサイ人への手紙
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
これは、イエス・キリストを信じて受け入れたものに起こる変化として書かれています。それは、罪で崩れてみえなくなった神のかたちが新しくされて、創造主である神さまのかたちに戻されるというのです。
そうです。イエス・キリストを信じれば、新しくされて、はじめのかたちにもどることができます。神さまが置いてくださった本当の目的が見えるようになります。
![](https://assets.st-note.com/img/1684423085316-2BxIAYJ1xD.jpg?width=1200)
神さまの御子イエス・キリストは、私たち誰にでもある罪が赦されるように、わたしたちのすべての罪の身代わりに十字架にかかって罰を受け、死んでくださいました。そしてお墓に葬られましたが神さまは、このイエス・キリストを3日目によみがえらせて、このことを信じるすべての人があたらしく造られた者として、すべての罪が赦されて、造り主のかたちに従って新しくされて、神さまのはじめのとってもよかったかたちに戻されます。
新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
これが神さまの愛です。私たちのためにご自分のひとり子のいのちまで犠牲にされたまことの神の愛です。この愛を知った者が神さまを愛することができるようになるのです。そして、神さまのお言葉に従って歩むことができます。
そして神さまのおことば、聖書のおことばに従って生活していく私たちが、神さまが本来私たちを置かれたその目的をはっきりと見ながら、神さまの愛と喜びと平安に満たされて、確実に歩んでいくことができます。創世記のはじめに神さまが創られた「はなはだ良い」世界を私たちにみせてくださいます。
イスラエルの民は今日語られた、モーセとその後継者ヨシュアの警告のことばに従わずに無視してしまいました。結果、約束の地を失い、ある者たちは根絶やしにされます。この歴史の事実、歴史が教える警告から学ぶものでありたいと教えられます。
深く慎んで、自分自身に十分気をつけて、神さまを愛すること。
これこそが、祝福の道です。
〈 おわりに 〉
ヨシュア記では、約束の地の獲得という大きな出来事が記されていましたので、どうしても出来事を中心に見ていく必要がありました。その分ヨシュアという人物を掘り下げる機会はありませんでした。最後にヨシュアという人物に簡単に触れて終わりたいと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1684423163482-Qd4nk7Dxm9.jpg?width=1200)
ヨシュアは、モーセに仕えていた時からもリーダーになってからも、徹底して強く、雄々しくあった人物でした。この強さは、弱さを覚えてともにいてくださる神さまに頼る強さでした。
主=神さまが強いのですから、主に頼ることのできるヨシュアが強いのです。また、雄々しいのは、主を待ち望み主とともに戦うから雄々しいのです。主が雄々しくあって、祈りとともに主を静まって待ちのぞみ、主とともにたたかうヨシュアだから雄々しいのです。
ヨシュアは、約束の地に入る前に、リーダーとして、イスラエルの民たちに、組織としての指揮系統の確認をし、すでにモーセの時代にヨルダン川の東側に土地を獲得していた、ルベン、ガド、マナセの半部族たちとの連帯意識を保ち、敵の正確な内部情報を得て戦いの備えをしています。
そんな戦うリーダーに必要な能力があったから、リーダーに選ばれたとみることができます。しかし、いつでも神さまに頼るヨシュアのことを思えば、その必要な能力も都度、神さまに備えらえたものであったのでしょう。
主なる神さまがどんな時でも必要のすべてを与えてくださると確信し、主への信頼で前に進んで行った信仰者の姿をヨシュアという人物に見ることができます。
![](https://assets.st-note.com/img/1684424641610-9UHyVwcQKn.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1684424657518-eRhWIEvr7S.jpg?width=1200)