ヨシュアを学ぼう①
本日からヨシュア記に入ります。( ヨシュア以前の人物伝は、▶︎HPのブログにて公開中)
これまでのところを振り返ります。神さまは、アブラハムとその子孫のイスラエル民族を神の民として選ばれました。しかし、彼らはエジプトで奴隷にされていました。
そこで、神さまは、モーセを遣わせてイスラエルの人々をエジプトから救い出し、シナイ山で契約を結びます。
このことは、神さまが、アブラハムの子孫を通してすべての国民を祝福するとしたアブラハム契約から1歩進んだ契約です。
もしイスラエルが神さまとの契約(この後示される律法、基本的なものは十戒)を守るなら世界中に神さまを示す王国になるというものでした。その後神さまは、神さまの臨在(民の中で存在)をも回復させます。
シナイ契約の後、神さまは、彼らを荒野に導かれ、彼らは約束の地の外側に宿営していました。モーセは彼らに「神さまの命令に従い他の国々に神さまがどんな方であるかを示すようにと呼びかけます。
そしてモーセの死後、新しい指導者ヨシュアとイスラエルの民たちが、神さまの約束の地、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地をどのようにして自分(イスラエル民族)たちのものにしていったか、それがヨシュア記に記されています。
今日は、ヨシュア記1章から5章で、「約束の地に入る」と題してお話をいたします。
3つの項目でお話しします。
1.神さまからのチャレンジ
モーセの死後、新しいリーダーに任命されたヨシュアに神さまからの命令があります。
今イスラエルの民は、ヨルダン川の東側にいます。
神さまの約束された地は、ヨルダン川の西側のカナンの地ですから、神さまはヨルダン川を渡ってそこに行くようにと言われています。
与えるという動詞は完了形です。ですから、「すでに与え終わっている。」と言えます。
神さまとしては、その土地はすでにイスラエルの人々のものとなっている。だからあなたがたは、そこに行ってその地の人々を追い出して占領し、自分たちの所有としなさいと言われています。
この戦いは「イスラエルの民 対 カナンの人々」の戦いではなく、すでに与え終わったと言われる「神さまの戦い」であり、その神さまを徹底して信頼し、従っていきなさい。
これは、あなたがたの「信仰の戦い」だと、神さまは最初に宣言されているのです。
そして神さまは、あなた(ヨシュア)は、モーセとともにいた、わたし(神さま)をこれまで見てきているが、私は同じように、あなた(ヨシュア)とも、共にいようと励ましています。そして、強く、また雄々しくあれ。と言っています。これはこの箇所で繰り返されている重要な言葉です。
この強さは、自分の弱さを覚えてともにいてくださる神さまに頼るから強いということです。全知全能なる神さまが強くて、その神さまに頼ることのできる信仰者が強いのです。
また、雄々しいのは、神さまを待ち望み神さまとともに戦うから雄々しいのです。
そして神さまは、ヨシュアにモーセが語った律法をすべて守り行なうように命じました。それをまとめていうならば、神を愛すること、神を第一にすることです。
これが守られるならば、土地が与えられるだけではなくて、良い地にあって栄えることが約束されているのです。
神さまは、ヨシュアにそしてイスラエルの民にこれは、「神さまの戦い」であり「信仰の戦い」であることを植え付けようとしているのです。
2.ヨルダン川を渡る
ヨシュアは、モーセが民数記13-14章で実施したように斥候(偵察隊)に敵地の偵察に行かせます。前回のモーセの時は、斥候たちが見た外部情報だけで、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです(民13:31)」と言って、民はくじけ、不信仰となり、40年間も荒野をさまようことになりました。
でも、今回は、
という重要な内部情報を得て、彼らは力づけられます。
しかし、この時のヨルダン川は雪解けの水で増水し、そこを渡るのは不可能と思われる状況でした。5章の過越しの祭りという言葉からそれが分かります。人の目からは、この時期のヨルダン川を渡る(もちろん橋はありません)のは危険、無謀な行為でした。
しかし、彼らはこの神さまの言葉を信じて従いました。エジプトから逃げる時は、モーセが神さまによって海の水を完全に分けて、海底が渇いたところを進んで行きました。
しかし今回は、信じてまず行動し、祭司たちの足の裏が川の水に浸ってから、川の水がせき止められて、民たちは皆ヨルダン川を渡り終えました。
新約聖書のヨハネによる福音書の一節を見ます。
神さまは常に私たちの信仰にチャレンジを与えておられます。奇跡を見て行動するのではなく、お言葉をただ信じて、神さまが導いてくださることを確信し、見ずに行動する信仰を神さまは喜んでくださいます。
神さまのお言葉に従い、ヨルダン川を渡った彼らには、このお言葉にある約束も現実のものとなって、この地が完全に自分たちのものとなることを確信することができたのです。
3.抜き身の剣の将(軍の長)
「割礼」は神さまに従い信仰をもって歩む自覚の目的でなされます。エジプトかを脱出したイスラエルの民たちは、不信仰のゆえに40年間荒野をさまよいました。彼らが亡くなった後、ヨルダン川を渡った時点で、神さまはその子供たち、第二世代に「割礼」を施すことをヨシュアに命じました。
第二世代の者たちが、神さまの導きに、完全に従って歩み者となるように、神さまは「割礼」を求められたのです。
そして、ヨシュアは割礼を受けた者たちとともに、「過越の祭り」をささげました。民の不信仰によって荒野の40年間には「過越の祭り」の記録はありません。ここで、第二世代の民たちが割礼を受け、また「過越の祭り」をささげたとことで、神さまと神の民である彼らとの関係が回復されたことを意味しています。
エリコの近くでヨシュアが目を上げると、「抜き身の剣をもった主の軍勢の将」が現われました。ヨシュアは、《「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。》と聞きます。彼は言った、《「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。》
との答えが返ってきます。
この軍勢の将は、やがてこの世に来られた救い主イエス・キリストではないかと言われています。それはともかくとして、
《あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか。》とのヨシュアの問いへの答えはありません。
しかし、主の軍勢の将が現れてくださったということは、ヨシュア自身が言った3章10節の言葉、
《生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、》
このことをヨシュアが確信するためだと考えられます。
ヨシュアが完全に神さまを信頼する信仰によって、神さまの戦いの側に立つのかと問われているのです。
本日のところは、イスラエルの民たちがヨルダン川を渡って、これからの戦いの準備のシーンでした。
ここは徹底して、神さまとの正しい関係と神さまへの信頼を新リーダーのヨシュアとイスラエルの民たちに求められています。
罪多いこの世にある信仰者の戦いも全く同じです。日々の戦いは神さまへの信頼によって勝ち取ることを肝に銘じなさいと教えられています。
自分の弱さを覚えてともにいてくださる神さまに頼る信仰者は強く、神さまを待ち望み神さまとともに戦う信仰者が雄々しいのです。
そして私たちは《「…見ないで信ずる者は、さいわいである」。》と常に信仰の在り方について教えられています。
まだ、信じておられない方は、見えないけれども、この世もまた歴史もご支配されている、まことの神さまを信じることを心からお勧めいたします。この世の戦いは、実は霊的な戦いです。まことの神さまはその戦いに完全に勝利させてくださることを約束しておられます。信仰による勝利を得よと導いておられます。