聖書の登場人物を学ぼう|サウル①
(全7回)
サムエル記上8-10章 士師時代の終焉とイスラエル初代の王サウル
1.継承者の不在と王の要求
なぜ、神の人であるサムエルが、どうして息子たちを神さまの前に善い訓練できなかったのか。と思わされます。しかし、現代でも十分起こっていることです。親が信仰的にすばらしい人であっても、そのお子さんが相応しくないことは耳にします。
二人の息子は「ベエルシバ」で士師でした。サムエルのいるところから遠く離れています。そこで、彼らが利得を求め、賄賂を取って、そのさばきを曲げていたというのです。
長老たちの要求は、合理的な適切なものです。確かにサムエルが、相応しくない息子たちを士師にすることは間違っていました。
しかしここで、長老たちが間違ってサムエルに要求しています。
それは、《今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。》と周辺国と同じように、指導者問題を解決しようとしたことです。
長老たちは、神さまにこの問題を解決していただくように祈り求めませんでした。
サムエルは、このことを神さまに祈り、神さまからの厳しい忠告をイスラエルの民に語りましたが、イスラエルの民は忠告を聞きませんでした。
イスラエルが人間の王を要求することが、どうして悪いことなのでしょうか。
イスラエルの民は、神さまのお言葉を通して、神さまご自身から支配を受けなければいけないのに、それを拒んでいるからです。過去、モーセや士師など、これまで現れた指導者は、神さまのお言葉を語りました。
それは神さまから選ばれたアブラハムの子孫が、神さまのお言葉によって、自分たちを律して生きていくことに何からも自由でした。つまり、神さまの下にある同じ人間に支配されることはありませんでした。これを神政政治と呼びます。神さまが王である政治形態です。
イスラエルの民は、神さまからのご支配を拒んだことになります。
ここに、神さまが人にお与えになられた自由意志の悪い面を見ます。
私たち人間は、神さまが警告をしても聞かず、自分たちのやりたいことを主張して、自分たちが考える通りにする。ということです。
神さまは強制されるお方ではありません。しかし、その自由の態度は、自分で蒔いた種は自分で刈り取る原則が働きます。
神さまは、モーセの時代から、やがてイスラエルの民は、王を求めることを知っておられました。モーセはヨルダンの向こうのモアブの地で、イスラエルの民に語っていました。
イスラエルは今、王が欲しいと主張し続けたので、神さまは許され、王をお選びになります。
2.サウルの紹介
“ サウル ”
主がイスラエルに与えられる新しい王です。出身はベニヤミン(人)です。
神さまがイスラエルの王として選ばれる人物は、人間的には王としてすばらしい素養があります。サウルは裕福な父親の息子でした。新改訳聖書・新共同訳聖書には「麗しい」を「美しい」と訳しています。つまり、イスラエルの中で一番麗しく・美しく、また背も高かったようです。
イスラエルの民が願っているとおり、見た目に王として応しい人を神さまは選ばれ用意されました。
ある日サウルは、父の指示で、いなくなった数頭のロバを探しに、しもべと一緒に探しに出かけました。しかし、見当たらなかったので、さまざまな地を巡り父が心配しているだろうから帰ろうとしもべに言うと、しもべが、サウルへ「神の人」のところへ行きましょうと進言したので、サウルとしもべは、サムエルのところへ行くこととなりました。
3.油注ぎ
サウルに示された、しるし(10章2-9節)は、すべてその日に起こりました。
こうして、イスラエルは神さまを捨て、自分たちの上にサウルという王を立てたのです。
聖書は一貫として、これらの背後にも神さまがイスラエルに介入しておられることを示唆しています。
あらかじめ律法に制度を設け、その律法の下に王が立てられているのです。