沖縄最高伝説
約一週間の滞在から戻ってきたばかりだが、俺はもう既に沖縄に帰りたい。別に泳ぐでもない。何か名物を食うでもない。首都から2000km離れた孤島で、ひたすら海を抱きしめていたい。小さい頃、恋人にフラれた若者が海に浮かぶ夕陽に向かってバカヤローなどと叫ぶドラマのワンシーンを見て、そんなことをして何の意味があるんだと小馬鹿にしていたが、今ではあの青年たちの気持ちがよく分かる。つまりは、都会というか、別に田舎でも何でもいいんだが、とりあえず我々自身が普段住んでいる場所には、我々自身が住んでいるからこそのしがらみやら面倒事が山とあって、“住めば都”とはよく言ったものだが、逆に言えば“住む限りどこであれ地獄”とも言えてしまうのであり、南の島への旅はそういったあらゆる面倒事への対処療法に一役買っているところがある。無論、美しい海をどれだけ自由に泳ぎ回ろうとも、どれだけ多量の泡盛で我を忘れようとも、はたまた多幸感溢れる沖縄民謡のリズムにどれだけ身を任せようとも、我らが日常に横たわる種々のプロブレムが何か好転したり解決したりするわけでは全くないのだが、そこはそれ、リゾート地で働く人たちにだって生活があるわけですから、一度南の島に来て、全員のあらゆる悩みがことごとく解決して、それじゃ、もう二度と来ませんので、とばかりに東京や大阪に戻って島の思い出ごと何もかも綺麗さっぱり忘れ去られたのでは島人(しまんちゅ)たちも商売上がったりなわけでして、たとえばどこかの企業が、一度食べたら一生、もう二度とはお腹が空きません、なんて魔法の食べ物を売り始めてしまったら、マクドナルドもやよい軒も、とにかく世界中にある飲食店はみんなまとめて潰れてしまうわけでして、つまり何某かの悩みに対して処方されはするものの、特にこれといって治療はせず、せいぜいただ心地よい“vacances:逃避”を提供するだけ、という形が、商売としては最もというか唯一動的に平衡なわけでして、どうなんじゃそれ、と思うかもしれないけども、そもそも上述したように現存する全ての飲食店は我々の飢えを抜本的に満たすものではありえないし、あってはいけないし、酸素だって窒素だって、毎秒吸って吐いてを死ぬまで繰り返さなきゃいけないし、服屋だって、ガソリンスタンドだって、世界を変えてやる!系のロックバンドですら、何もかも、構造は同じですから。世界変えるぜ系のロックバンドの人たち、本当に根本から世界変えれちゃったら、仕事なくなりますから。そこはもう、そういうものとして、世の中変えまっせビジネスとして、やっていくしかないわけです。何となく腑に落ちないかもしれないけど、でも人生っていうか、命って多分、そもそもそういう形をしているはず。十代の頃、夜中眠る前に、こんな面倒事だらけの人生なのに無理矢理この命を続けていく意味って何?とか、あれこれ悩んでた俺に伝えたい。お前、そりゃ、沖縄に行くためだよと。色々悩みはあるだろけど、毎日あれこれめんどくさいかも知れんけど、大人になって、諸々ひと段落したら、お前は沖縄に行くんだ。行っても別に何も解決しないけど、どんなに安い便でも何でもいいから、とりあえず飛行機のチケットを取って、お前は沖縄に行くんだ。悩んでるから沖縄に行くというより、俺たちは沖縄に行くためにわざわざ日々あれこれ悩ませていただいているんだ。俺が俺としてこの世を生きる意味や理由なんて、どこにもない。どこにもないからこそ、それを探すために若さを生きて、探しても探しても見つからないから子を産み、その子供に自分の人生の捜索願いを託すのだ。俺の親も、その親も、その親の親の親だって、そういう風に生きてきたはずだ。俺は近く、きっとまた沖縄に行くだろう。いつか子供が出来たら、そいつだって連れて行く。将来、いつかきっと、自分で沖縄に来るんだと思わせてやる。人生なんて、それだけでいい。それしかない。そうするし、そうしたいのだ。そう思う。
鈴木大拙の即非ではないが、海は清算であり、かつまた、決して清算ではない。だからこそ、海は全き清算である。やがて現れる荒廃したテクノポリスよ、君はその残骸から赤ん坊取り出すのさ。そして新たな1ページを書き留めてゆく。だから今が最高だと転がっていこうぜ。