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どうして母はいらないものを送るのか・・・その理由を割と真面目に考えてみた

 私が学生の頃に母親のヤバさに気づきつつあったとはいえ、その行動の多くが「あるある」だと知るまでにはそれから10年ほどかかった。田房永子さんの超絶名著「母がしんどい」、信田さよ子先生の「母が重くてたまらない〜墓守娘の嘆き」この2冊によって、もしや…自分の母親はかなりヤバかったのか!と思いカウンセリングを真剣に受けるまでには、頼んでもない大量の果物を一部腐らせたことを理由に、寮の電話越しに母親にキレられてから実に、20年ほどかかってしまった。

 「母親にいらないものを送られる」ことが「あるある」であると知ってからいろんなエピソードを見聞きしたが、送られているものは、実に多種多様であった。人によっては、「大量の里芋(土つき)」を送られていて捨てるに捨てられないというエピソードもあった。里芋は調理の難易度が高いなあ、と思ったのだが、これが「切られた馬の生首(©️ゴッドファーザー)」とか「血塗られた脅迫状」とかであれば明らかに母親の危険性に気付けるのだが、大量の果物や里芋はギリギリ、「体にいいよね、美味しいよね」ということになってしまい、嫌がることが難しい。しかし改めて考えてみるとこちらは一人暮らしなのであるから、大量の柑橘類や里芋を一体いつどうやって食べると思っているのか、などの疑問はひたすら湧いてくる。そもそも就職氷河期世代の我々が抱える苦悩や、満員電車の絶望的な日々や、狭すぎるアパート暮らし、小さすぎて果物や里芋の入る隙のない冷蔵庫、皮を剥く手間が辛すぎる日々をどうして想像ができないのか。すぐに結婚して主婦になったから、想像できないのだとしても、日本の学校教育はよ!?立場や世代の違う人が必要としているものや価値観が違うっていうことがどうしてこんなにわかってもらえないのかと、絶望しかない。

 果物は、あったとしても2個でいい。段ボール一つは本当に多すぎる。

 カウンセリングを受けたり、母娘問題の本を読んだりするうちに、母親の行動について、一体どうしてあんなふうになってしまったのかを考える機会が増えた。特に大量の果物などの一方的な贈答については、自分なりに考えた結果、以下のような結論に達した。

・かつて誰かに果物を贈ったところとても喜んでもらえたので、母にとっての贈り物の鉄板となった。

・母にとっては、その果物には郷里を思い出すなどの、特別な思い入れがあり、送られたら嬉しいものだと確信しすぎていた。

・母は、ものがあまり無い時代に育ったので、ものを送られることはただただ嬉しいことだと思っていた。

・子供が母親の態度をどう思うかを、常に一切気にしないという強靭な心持ちで子育てをやってきた(そうでないとやってこれなかった)。

・常に、子供が母親の活動を必要としているか、送るものが欲しいか欲しくないかを確認しない(これは実は意図的。必要じゃない、欲しくないと言われることによる心のダメージを無意識に防ぐ作用あり)。

・とにかく、子供に何かをしてあげたい(母として)。存在の価値を伝えたい。

・とにかく、子供に母として何かをしてあげたことを、子供が実は心から嫌がっていたことだけは絶対に認めたくない。それを認めてしまうとこれまでのあらゆる母としての活動に疑念が湧くので、それだけは認めたくない。

・子供が大量の果物や土のついた里芋等を欲しいか欲しく無いかを確認してしまうと、欲しく無い、と言われた際に母親の存在意義がなくなる。欲しいか欲しく無いかを確認せずに送れば、母として使命を果たせたという気持ちになれる。

頓珍漢なように見える一方的な大量の贈り物は、実は何の努力もせずに母親としての役割を果たせるという、実に巧妙な方法なのだった。母としての存在を娘に対して、無視できないものとして示している。

それはれっきとした支配なのだった。


 

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