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【ワタシ、不妊治療してました#11】目に見えない何かに動かされること

上海勤務の仕事が決まる前、というか正確には、その試験を受けようと思う前、母方の祖母が亡くなった。

母方の祖母は、伯父家族と同居していたのにも関わらず、全く介護してもらっていなかったらしく、かつ祖母も伯父家族を信頼していなかったのか、自宅で倒れても自力で近所の人に助けを呼んで救急車を呼んでもらったらしい。
同居していなかったワタシたち家族はある意味外野ではあるものの、どう見てもおかしいということははっきりしていた。

ちょうどその時の父の仕事が高齢者福祉関係だったことも相まって、父が祖母の住む街の役場に相談し、介護施設へと入居することになった。案の定、施設に入居しても、伯父家族はほとんど顔を出さなかった。しばらくして、徐々に体力が落ちてきた祖母は、施設から病院へと入院することになった。施設にほとんど来ない伯父家族が病院で付き添ったりすることはないと思った母は、関西から祖母の入院する甲信越地域の病院に寝泊りすることになった。長丁場になると思ったワタシは、このままでは母がダメになってしまうかもしれないと感じ、週末だけでもとワタシが東京から祖母の病院に行くことにした。

一番近くにいる伯父家族は本当に何もしなかったが、ワタシが祖母のところへ行ったある日、たまたま伯父が来ていた。「悪いなぁ~」と全然悪いとも思っていない口調に腹が立ち、思わず
「あんたは誰から生まれてきたんだよ、ここで寝ている人があんたの母さんなんだったら、あんたが母さんに面倒見てもらったように、あんたが母さん面倒見ないと、いなくなったら親孝行も何もないんだよ、それか生まれてこなきゃ良かったとでも思ってんの!?それならなおさらおばあちゃんがかわいそうだわ」
と言ってしまった。

もう、伯父と祖母の間に何があったは知らない。だけど、今意識が朦朧として横たわっている祖母が命がけで伯父を産んだということは事実であると思うと、伯父の今までの態度が許せず、久々キレた。

その場には伯父だけでなく他にも親戚がいる中爆弾を落としてしまったのだが、この爆弾投下後、伯父は祖母の顔に触れて帰った。

その夜は、ワタシと母と祖母と三人で病室で寝た。
翌朝、「また来週来るからね」と言ってワタシは東京に戻った。
新宿行きの特急あずさの中で、母から連絡が入った。
「おばあちゃんが亡くなったよ」と。
ワタシが病室から去ったあと、徐々に心拍と血圧が下がったようで、
母が言うには、おばあちゃんはワタシに付いていったと。
もしかすると、ワタシがキレたあたりから乗り移っていたのかもしれない。

生前、祖母は常々、「早く身を固めろ」と言っていた。
昔の人だから、大学院行って、留学までして、祖母の時代からするとワタシは結婚への道のりを完全に遠回りしているわけで、初孫だったワタシの結婚のことが一番の心配だったのだと思う。

そして、祖母の葬儀が終わった後、「そうだ、あの試験受けよう」と思い、
実は第一志望の勤務地は上海ではなく、内陸の成都を希望していたが、結果は上海勤務になり、はじめは「上海なんて行く気なかったのに」なんてぼやいていたのに、赴任期間である2年のうちに上海で結婚した。

「この人と結婚する」なんて運命のようなものは全く感じていません。
が、結婚に至るまでも、何かに動かされているような出来事があった。

オット氏とは職場で出会った。そもそも職場には独身男性が少なく、その少ない独身男性の一人と結婚するなんで微塵も思わなかった。
が、オット氏が日本でしていた仕事はもともとのワタシの研究分野に近く、仕事以外の時間で研究を続けていたワタシは、オット氏からいろいろと教えてもらったり、腐れ縁教授とその仲間たちもオット氏から話を聞いたりしたいということもあり、ワタシからオット氏にお願いすることが多く、本当にお世話になっていた。
夏休み前、前年の夏休みは忙しすぎて夏休みが取れなかったというオット氏に、ワタシから「腐れ縁教授ご一行(←実際にはちゃんと名前で言ってます)が中国のとある農場に行くらしいので、一緒にどうですか」とお誘いし、一緒に行くことになった。双方のスケジュールの都合で別ルートで現地に到着したが、上海へ戻るタイミングで、まさかの上海の空港が豪雨で使えず、飛行機は問題なく飛べそうないい天気の現地にもう一泊せざるを得ない状況に。ワタシとオット氏は職場には行先だけを伝えていたとはいえ、職場中が、なんで同じ便!?どういうこと!?という騒ぎになっていたらしい。
ワタシもオット氏もお互いのことは全く意識していない、けれども職場ではそういう仲なんでしょ的雰囲気が広がっていた。

でも、正直、嫌な気分はしなかった。実は9歳も年上のオット氏、気を使わず話しやすく、話すことがなくなって沈黙状態でもフツーでいられる空気感。恋愛感情とか、そういう感情の前に、オット氏の前で自然体でいられる自分に気づいた。もしかして、それが一番大事なことではないか、と気づいた。
それに気づいてからは、職場の“そういう仲なんでしょ”雰囲気を味方につけ、結婚に至った。ある意味、職場の人全員が仲人くらいな勢い。

本当のところ、2年の上海勤務の間に、次の職を探さなければならなかったが、職よりも先に結婚が先に決まった。オット氏は、家庭に入ってということも言わなければ、共働きでとも言わない、あなたの好きなように的スタンスなので、職探しつつ、オット氏の赴任期間終了とともにワタシも帰国した。

オット氏の「あなたの好きなように」的スタンスに従えば、ワタシは職探しよりも早く子どもが欲しかった。でも、日本で結婚式もあげたいし、とか何とか言っていたら、あっという間に1年が経ち、このままでは・・・と思い大学院の時にバイトしたレディースクリニックへ行ったら、卵子がネックレスのように連なっている・・・多嚢胞卵巣症候群だった。
幸い、薬の処方だけで完治したが、その当時住んでいたところから遠かったので、近くの普通のレディースクリニックへ転院した。

多嚢胞卵巣症候群が完治し、通水検査もしてみたところ問題なし(かなりの激痛で気を失い、でも卵管通っていると言われて、ほんとかよ、とか思った)、普通のクリニックでタイミング法からスタート。でもタイミングを見てもらってもなかなか授からないまま時が過ぎ、そのうち仕事をしていなかったワタシのもとに、腐れ縁教授の仲間たちから仕事のオファーの話が来て、子どもよりも先に仕事が先に来た。


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