セカイ系試論――想像力とセカイの限界、他者性と身体性について

 セカイ系は終わったミームである。しかし、現在に至っても十分な議論がなされたわけではないし、その系譜が後世に与えた影響も含めて再び論じることには大きな意味がある。
 本稿ではセカイ系というムーブメントがなぜ生まれたのかという原点に立ち返るため、NTRとメカ少女という二つの観点から代表的なセカイ系の作品である秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』と高橋しんの漫画『最終兵器彼女』を読み解いていきたいと思う。


◆セカイ系とはなにか
セカイ系について論じる前に、まずそもそもセカイ系とはなにか、という問題について簡単にでも整理しておく必要がある。セカイ系という言葉はインターネット上で生起し、厳密な定義を持たないまま流布したバズワードであるからだ。
 東浩紀らが発刊した『波状言論 美少女ゲームの臨界点』によれば、セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと(※1)」であり、その代表作として新海誠の『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』をあげている。
 本稿においてセカイ系とは、『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響の下、2000年代初頭に生み出され受容された「主人公とヒロインの二者間において完結する狭い範囲における「セカイ」を取り巻く作品」であると規定する。
 セカイ系として名前をあげられる作品に共通するとされるおおまかな特徴としては、以下があげられる。


・人々が知らないところで、世界規模の最終戦争や異星人の侵略によって世界は危機に瀕している
・ヒロインは学園などの日常生活から遠く離れた場所での戦争に駆り出されていて、ヒロインが敗北すると世界が滅亡してしまう
・主人公とヒロインは恋愛関係にあるが、主人公は無力であり戦わずに日常生活を送っている
・世界の滅亡と主人公たちの恋愛が直結していて、国家や社会に関する描写は希薄であり経済や政治といった問題は削除されている
・主人公は世界の滅亡とヒロインの命のどちらかを選ばなければならない
・登場人物の心情描写が重視される

 これらの定義におけるセカイ系に対し、「主人公と社会の間にあるべき繋がりが欠けていて、自意識過剰で独りよがり」、「一人語りが激しく、主人公の周辺のみを指して「世界」という言葉を使う浅はかさ」を非難されることがあるが、ここでそれらへ反駁することは避ける。ひとまずここではセカイ系を、『最終兵器彼女』や『イリヤの空』のような、世界の滅亡をかけて戦うヒロインと、なんの力も持たない主人公との恋愛を描いた作品であるとしたい(※2)。


◆「きみ」と「ぼく」の他者性
 では、さっそく本題に入っていく。
 いわゆるセカイ系の作品にとって、「世界の終わり」とは人類の滅亡や社会の崩壊を意味するのではない。これらは作中においては雰囲気や世界観を作り出すための装置に過ぎない。「世界の終わり」は、「キミとボク」の関係の終焉をさしている。
 セカイ系について考えるうえでもっとも重要なものは他者性である。セカイ系とは『エヴァ』を観た後に受けた衝撃から立ち直ることのできなかった視聴者たちに受容された作品群であるが、『エヴァ』の何が最も視聴者を傷つけたのかというと、おそらくヒロインたちがことごとく〝主人公のものではなかった〟という点ではないかと考えられる。綾波レイは確執のある父親に近しい存在であり、惣流・アスカ・ラングレーを逃避先として求めた際
には強く拒絶され、葛城ミサトには大学時代に交際していた加持リョウジがいる(※3)。
 『エヴァ』において、シンジは自分とヒロインの間から、他者の存在を取り除くことができなかった。ヒロインたちは常に自分のものではなく、自分ではない誰かのものであったことが、なによりも視聴者の心にダメージを与えたと考えられる。
 このことに対する回答として、オタクは社会から切り離された「キミとボク」の関係を望んだ。集団の中では埋没し無視されてしまう人間でも、一対一でコミュニケーションを取っている間は相手に自分だけを認識させることができるし、他者が二者の関係性の間に介在する余地が消えうせるからである。
 他者性に関連して無視できない問題であり、そして見落とされがちなのはヒロインの処女性である。他者性と処女性について、セカイ系からは一度少し離れて武梨えりの漫画『かんなぎ』にまつわる騒動を例に考えてみよう。

 かんなぎ騒動とは、インターネット上で2008年頃に漫画『かんなぎ』のヒロインであるナギの元恋人とも思われる人物が登場したことにより、ナギが非処女であるとして処女厨が激怒し、放送中だったアニメ版の掲示板を荒
らしたり、単行本を引き裂いて作者の家に送りつけたとされる騒動である。原作者の武梨えりが心労で倒れ休載に追い込まれたとして、当時多くのまとめサイトが取り上げた事件だった。厳重に記しておくがこれは全く根拠のないデマであり、原作を一読すればそのように読み取れる描写がないことは明らかであるし、その後の展開で主人公の誤解も解かれる。破かれた単行本が送り付けられることもなく、休載も作者の別の病気が原因だったが、この出
来事は結果として「オタクの貞操観念」「ヒロインが非処女であることの可否」といった議論を巻き起こした。まとめサイトに踊らされる一部ネットユーザーのリテラシーの低さが引き金になったとはいえ、これらの話題に敏感な人間が多くいたという証左にはなりうると考えられる。2004年に発売されたエルフ制作のアダルトゲーム『下級生2』においてヒロインの一人が彼氏持ちであったことから炎上したことからも、インターネット上においていわゆる非処女疑惑が出ると主人公(作品の受け手)が知らないヒロインの一面が存在することを許せない層がいるということがわかるだろう。
 さて、セカイ系に話を戻そう。『最終兵器彼女』と『イリヤの空』両作品に共通して、ヒロインが主人公以外の男と関係を結びかける、「寝取られ」のシーンがある。『最終兵器彼女』においてはちせが主人公の住む街から遠く離れた仙台で部下であるテツと関係を持ちかけるし、『イリヤの空』においては主人公浅羽が買い出しの帰り道に見つけたエロ本を読みふけっている間にイリヤは強姦されそうになってしまう。またつけくわえておくべきは、主人公側であるシュウジもちせの不在時にテツの妻であるふゆみと関係をもちかけるし、浅羽もイリヤが襲われている間に自慰にふけっていたという点である。これらのことは主人公たちに大きな自己嫌悪をもたらしている。
『最終兵器彼女』『イリヤの空』それぞれの主人公にとってもっとも恐れるべきことは、事態が自分の知らないところで推移することとヒロインが自分の知らないところにいることであるとも言える。セカイ系の作品の根底には主人公が知らないヒロインの人間関係に対する恐怖がある。セカイ系は社会などに対する言及や描写が少ないことからしばしば作者や読者の想像力の不足を批判されるが、これらの作品が削除しようとしたのは国家や社会ではなく、もっと卑近な、主人公とヒロインの関係を破壊しかねない第三者の存在である(※4)。セカイ系とはつまるところ、ヒロインから他者性を排除しようとする(そして失敗した)作品のことで、言い換えれば〝僕の知らない誰か〟、〝僕の知らない君〟をどう受け入れるかという物語なのだ。


◆少女たちの身体性
 他者性と並行して考えなければならないのは、ヒロインの身体性についてである。セカイ系の世界観は、往々にしてSFチックなものが多い。メカ少女的なガジェットは少女にモノであるという性質を付与し、兵器として扱われることの悲劇性をもたらしている。
 が、それ以上に問題となるのは、SF的な想像力はセカイ系の作品の構造においてどのような役割を果たしているのだろうか、という疑問である。これは言い換えれば、なぜヒロインの体は改造されなければならなかったか、ということだ。
 戦争は日常の破壊者としてのもっともわかりやすいメタファーであるし、兵器とは大切なものを暴力から守るために必要なものである。ちせは文字通りの最終兵器として異形へと変貌していくし、イリヤも戦闘機ブラックマンタの操縦のために手首に銀色の玉を埋め込まれその上大量に投薬されていて、その副作用として髪の色が抜け落ちてしまう。もちろん肉体と機械類が不気味な融合をしているモチーフはセカイ系に特有のものではなく、サイバーパンク的な世界観ではサイボーグとして登場するし、『AKIRA』のように先行する作品も多い。だが、セカイ系において最も強調されているのはヒロイン自身と主人公(読者)がもつ身体の「違和感」である。
 成長期にある以上、そもそも少女の身体は可塑的であると言える。『最終兵器彼女』でちせが交換日記に「わたし、成長している」と記しているように、兵器としての成長と少女としての成長は意図的に混同されて描写されている。しかし、ここでいう「成長」とは、止まることのない変化として残酷に描かれていて、以前の状態に戻ることのできない不可逆的なものだ。
 では、このように描かれた少女たちの身体はどのような意味を持つか。長谷川壌によればセカイ系というジャンルは次のような性質を持っている。

(前略)〈セカイ系〉はジャンル複合の産物であるといえる。つまり、「世界を危機から守るSF」と「普通の学園青春もの」の複合なのである。だがその二つは、本質的には融合しあわない。(中略)それを端的に示しているのが、迫り来る「世界の危機」が主人公にとってリアルでなく、実感されてはいないという点だ。〈セカイ系〉の代表として挙げられる「ほしのこえ」「最終兵器彼女」でも同じことが言えるのだが、主人公が戦うわけではないため、「世界の危機」という大きな問題が、まるでテレビの向こう側の世界で起きている戦争であるかのように扱われている。それこそ二つの世界が、本質的に融合していない証拠である。つまり、エヴァ系の主人公をヒロインに置き換えて、それを観ているだけの〝我々の〟物語。それこそが〈セカイ系〉なのである。(※5)


 『イリヤの空』においても『最終兵器彼女』においても、少女の身体は世界の破滅とリンクしている。『最終兵器彼女』において戦争が激化するにつれてちせの体は「強くなりたい」という言葉どおり際限なく力を手に入れて肥大していくし、『イリヤの空』においてもイリヤの髪が白くなってしまう場面は水面下で戦いが進行していることを主人公と読者に印象づけている。セカイ系における少女の身体の描かれ方は、主人公と読者にとっては非常にショッキングであり、日常の中にいて世界の危機を垣間見せる裂け目としての役割を持っている。本来接するはずのない世界の命運という大きな問題が、変わっていくヒロインの身体という実体を通して主人公の目の前に立ち現れるのだ。
 そして同時に少女の変化は、ヒロインの存在が主人公にとって遠い手の届かないもの、自分とは異なる異質なものへと変化していくことを表している。自分とは決定的に異なる存在へ変貌しようとする少女を、主人公は必死に自分の側、戦いではなく日常の世界へと連れ戻そうとする。このことが『最終兵器彼女』と『イリヤの空』に共通する展開へとつながっている。次項では他者性と身体性によってセカイ系の物語構造が決定されていることを考察していこう。

◆セカイ系の結末とその必然性
 セカイ系の作品において、主人公はヒロインのことを手に入れることができない。それはヒロインと自分の間から他者性を完全に排除することはできないからであるし、彼女の身体は戦いのたびに兵器として人間とは異なる存在へと変わっていくからだ。
 では、その結果として「きみ」と「ぼく」のセカイはどのような結末を迎えるか。ヒロインの人間としての身体性が失われつつあることを踏まえて発展していく主人公とヒロインの恋愛関係は、プラトニックで精神的な純愛によってのみ成立する。しかし、純愛は決してそのままの形では成就しない。純愛の行きつく先は、二人の破局という関係の終焉か、結婚という社会的に認められた制度への発展的解消のどちらかである。
 ここで問題となるのが、結婚という一種の儀礼の性質である。法によれば「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」するものとされるが、実際には二人の関係を社会の中に持ち込み、それを他者に認めてもらうことが必要となってくる。両者の親はもちろん、友人、同僚、自分を取り巻くすべての人間に対しお互いがお互いを所有していると公言することだと言ってもいい。 つまり、結婚とは二者間のみで完結する恋愛とは異なり、社会的な行為なのである。他者の存在、社会の存在を認めることなくして、結婚は成立しない。
 また、主人公の想像力の限界として、結婚ということに対して現実的な重みを感じることはできないし、『最終兵器彼女』と『イリヤの空』両方においてヒロインとの未来を夢想することはあっても、リアリティーを持ってその将来を描くことができない(特に『イリヤの空』で浅羽は南の島に移住して床屋に拾われ店を継ぐといった将来を思い描くが、悲しいかな中学生としての想像力の限界が読み取れると言ってもよいだろう)。
 ならば、二人の物語はどうなるか。答えは、駆け落ちと心中の二択である。
 「きみ」と「ぼく」の関係性とは、端的に言ってしまえば社会から自分と相手の二者のみを切り出すということである。このことはしばしば「社会領域の削除・消滅」という言い回しで表現されるが、注意すべきは、これは見方を変えれば社会から主人公とヒロインだけが消えてしまうということでもある。このことを表すこととして、『最終兵器彼女』と『イリヤの空』に共通して、周囲や追っ手の目をかいくぐって駆け落ちのように逃避行に走る展開を上げることができるだろう。社会を取り除きたいのであれば、改革を志したり、敵となるものに対して闘争するべきである。『最終兵器彼女』において、主人公シュウジのクラスメイトであるアツシは恋人であるアケミを守りたいと自衛隊に入隊するが、対してシュウジの選択はちせの手を取りながら誰も知る人のいない地へと向かうことだった。セカイ系と呼ばれる作品群の主人公たちは、戦うことではなく逃避することを選ぶ。セカイ系批判で揶揄される内向性はここでも発揮されていると見るべきだろう。
 しかし、駆け落ちは成功しない。たどり着いた先の街でシュウジはちせを失うし、浅羽は祖母の家を目的地として旅を続けていたが待ち受けていたのはイリヤを戦いに連れ戻す榎本だった。そして少女は最終決戦へと駆り出されていくのである。
 また、『最終兵器彼女』のシュウジはちせのいないところでふゆみ先輩と関係を持ちかける(あるいは過去にそういった関係を持っていた)し、『イリヤの空』のイリヤは主人公が河原でオナニーしている間にレイプされかける。セカイ系において世界が滅亡するのは、この罪悪感から逃れるため、という言い方もできる。『イリヤの空』において浅羽が世界とイリヤを天秤にかけて世界を滅ぼそうと決意したのはイリヤに対する罪滅ぼしの意味がある
(最大の理由は駆け落ちの途中で退行してしまったイリヤの記憶のためであろうが)し、同じように『最終兵器彼女』においてシュウジは「僕は罪を犯した」「僕はザンコクだろうか」と繰り返していることから、主人公が罪の意識を持っていることは明らかだ。
 物語の終盤で、シュウジも浅羽も世界と彼女を天秤にかけ、彼女の命を選び取る。ヒロインが一分一秒でも長く生き延びられるのであれば、世界など滅びてしまえと言ってのける。
 だが、それは叶わない。社会は少女に戦うことを強要する。主人公たちが何を選び取るかはそれぞれ異なる。『最終兵器彼女』では世界が実際に滅亡してしまった後、ちせの力によって二人だけの世界へと旅立っていく。『イリヤの空』ではイリヤが「浅羽だけでいい」と言って出撃し、世界を破滅から救う。ここでその是非は問わないが、『最終兵器彼女』は文字通り世界を滅ぼすことによって二人の純愛を成立させたと言えるだろうし、『イリヤの空』においては世界を巻き込んだ心中を図ろうとするも少女の選択によって生かされたとみることができるだろう。
 本稿では、主人公が手に入れられなかった彼女を、他の誰のものでもないようにする最後の手段として〝世界が終わる〟のがセカイ系であると考える。セカイ系においてヒロインが主人公の目の届かないどこかで戦い続け、そしてラストで彼方へ旅立つのは、「僕の知らない君」に対する不安と疑念を超克するためなのだ。


※1:東浩紀他『波状言論 美少女ゲームの臨界点』(2004年、波状言論)の編集部注によるもので、東の著作で何度か再記されている。
※2:アダルトゲームのシナリオライターであり小説家である元長柾木によると、セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群であるらしい。これによれば上遠野浩平のライトノベル『ブギーポップは笑わない』や清涼院流水の『カーニバル・イヴ』などもセカイ系の作品ということになるが、ここでその定義を則ると上遠野以降のライトノベルがすべてセカイ系の作品
となってしまい、論じる対象があまりにも大きくなってしまうためここでは採用しない。
※3:余談にはなるが、『エヴァ』でシンジ(と視聴者のオタク)にとって立ちはだかるのが父親の存在であったことと、セカイ系における家族の描写は関連していると考えられる。
『最終兵器彼女』において父親は不在であることが多く、その存在は薄められ主人公の行動を束縛するような描写はなくなっている(さらにアニメ版においては、父親は最終話まで一度も口を開かなかった)し、『イリヤの空』においても、父親は登場するものの主人公に何かを強制したり、何かを禁止したことはない。両作品に共通して父親の存在は主人公にとって障壁となることはなく、むしろ対話的・融和的ですらある。宇野常寛の言う決断主義の作品としては『コードギアス』があげられるが、『コードギアス』がセカイ系の克服たる所以は正面から父親を打ち破ったという点が大きい。
※4:『ほしのこえ』においては主人公が地球から遠く離れた宇宙空間で戦う女の子であり、他の二作品とは視点と性別が逆転している。『ほしのこえ』も小説版では男が中盤でヒロインとは別の女の子と付き合っている場面があり、ヒロイン側からみてこの考え方を当てはめることは十分に可能である。しかし筆者個人の考えとしては、戦っているヒロインの側はともかくとして男側に明確に世界の滅亡を意識する場面が最後まで訪れないため、本稿に
おいて『ほしのこえ』を他の二作品と同様に扱うことはとりあえず控えることとした。
※5:長谷川壌「セカイ系ライトノベルにおける恋愛構造論」、2009年、限界小説研究会編『社会は存在しない セカイ系文化論』p.180-181


◆参考文献
 ヒロインの他者性については遠野九重「「ぼくの知らないきみの知り合い」(他者性)について(私家版)」(2010年、〈https://togetter.com/li/52970〉、2021年8月アクセス)を参考にした。togetter でのまとめではあるがツイートした本人によるものなのでここに掲載させていただく。
 また、ヒロインの身体性とそれがもたらす帰着については Kuri「最終兵器彼女批判試論」(2000年、〈http://www.plumfield.jp/~pirolin/kuri/kanojo/sk_critic.html〉、2021年8月アクセス)を参考にさせていただいた。

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