私が音楽をやる衝動について

 最近、私はバンドを始めた。もともとバンドマンを公言していたが、ここにきてようやく始まった。そして音楽との距離感をより近く感じられるようになった。こうなってくると、自分のうちにある音楽とそれを取り巻く世界観や考えを共有するために、一度それを書き起こさなければならない。この衝動はぜひ作品に活かしたいところだが、私はまず文章に起こしてみようと思う。

まず、私がさまざまな芸術表現の中で音楽を選択したのは、音楽が「現実に最もよく触れることが出来るから」である。音楽と他の芸術を見比べた時、例えば詩や小説であれば、自分が経験していないことであっても書くことが出来る。絵であれば、見たこともないものを表現することが出来る。そして、それが実像とどれほどの乖離があったとしても、文学や絵画は芸術としてその存在を得ることができる。ところが、音楽には現実以外に立脚して存在することができない。例えば、「下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打」や「呪われたフルートのかぼそき単調な音色」(『ラヴクラフト全集 6』173頁)のような音楽が存在していた時、我々はそれを音声や文字という記号を通じて、理解することはできても、その音色自体を聞くことはできない。そして、この乖離は前に挙げた乖離より遥かに大きく、芸術としての価値も全く異なるものになってしまう。この特性は音楽の表現域の狭さであるとともに、音楽が現実に触れて初めて現出しうる稀有な存在であることの証左であろう。

そして、この現実に立脚するという性格は、我々の存在という課題においても非常に似通ったものがある。我々の存在は「現実に存在する」という所に深く依拠していた。我々は「私がいる」という事実によって現実と深く接していた。しかし、昨今のメタバースやアバター文化(実際の名を用いないことも)を見ると、「現実に存在しない」という別の存在が、独自にコミュニティを形成し、その中で現実を再構築しているようにも思われる。この現実の多様化に対する発露としての表現にも私は音楽を使用したいと考えている。

最後に、この「現実の多様化」という課題について、音楽における私のコンセプトを絡めながら述べていきたい。音楽という現実に立脚した表現において、この多様化という課題はどう向かっていくのだろうか。まず一つに、超現実やマジックリアリズム的世界観が挙げられると思う。現実に根差しながらも、現実という複層的な事象を発生させるためには、リアリズムに依拠しながらもその先の非現実的な憧憬を重ね合わせることも考えられる。現実というのは、逼迫感のある音によって表現しうる。そして、ダイナミズムをもって音の広がりを出せば、人はそこに非現実の強烈な歪みを見ることが出来るであろう。次に、私は現実と非現実との媒介として、暴力をあげたい。暴力は人々に興奮と恐怖という相反する感情を想起させる。この矛盾は、暴力というのが形態として非現実的であると共に、そこにある体液や悲鳴は予定調和的な現実の存在をより一層濃くするからもたらされる。そして、暴力というのは、外部からもたらされる起こりうる非現実である。非現実にはさまざまな形態があるが、いずれにせよ現実と結びつく上で、自らが能動的に動かなければ到達し得ない非現実である場合が多い。(薬や酒による陶酔など)しかし、暴力というのは、今自身の目の前に広がっているありきたりな現実を、突然に血塗られた悲鳴のこだまする非現実的世界へと変貌させることができる。暴力にはこうした効果があるため、私の音楽においては欠かせないものと言える。

最後に述べた表現法以外にも、私は音楽について述べなければならないことがある。それは「音楽において作品の中核はどこにあるのか?」ということである。例えば、絵画であれば絵そのものが中核であるし、映画であればスクリーンに上映されている世界が中核にあたる。そこで作者性というのは除外されてしまうのだ。(もし仮に、作者性があるとしても、受け手が無知である場合、それは作者自身と即時的に結びつかない)しかし、音楽においてはどうだろう?まず作品としての音の集合体があるのはもちろんだが、音楽は形がない故に、それを演奏した者、作曲した者にも即時的に注目が集まる。これはつまり、「音楽というものは、その形態の性質から、作品に対する本人の権限が大きい」という事である。一部を除き、他の芸術作品において作者自身が関わることは非常に少ない。しかし音楽においては、作者自身がその曲を弾き、パフォーマンスを披露することもままある。この自らの作品が即自らに結びつけられるという芸術形態は大変珍しい。この一体性も私が音楽を選択する理由たるものである。音楽は、どんな曲であれ、人が変われば演奏が変わってしまう。これはバンドに独自性を持たせるだけではなく、各個人が自立した存在であることの証左である。このことは多様化する現実の中で、人間としての我々の存在を提起する上で、非常に興味深い効果を与える。そして音楽というのはその形態を模倣せずとも、音というものを用いて様々な世界を表現できる。例えば、映画では演技であっても部屋に物を置き、世界に沿った動きを模倣しなければ、映画たり得ないし、演劇においても演技という形でその世界を模倣しなければならない。しかし、音楽においてそれは必要なく、いわば演者が神がかった世界をその身に降ろしていれば、たとえ地下の薄暗いライブハウスであっても、幾万の世界観を共有できるのである。この自己が自己を超えて、広く拡張された存在になり得ることも私の音楽選択における重要な部分の一つになっている。

以上の事は、今後バンドを行う上で最も中核に位置する重要なコンセプトとなる。ここまで長々と語ってきたが、これからはひたすら音源を作成し、一曲でもいい曲を提供していかなければならないと考えている。そしてこの文章が、これから私と一緒に作品を作っていく人達にとって、より良い作品づくりの一助になれば良いなと思う。最後になりますが、この文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。皆さんのあらゆる活動がより良い方向に向かうことを願っています。

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