お買い物ごっこで税金を集めたら、とんでもないことが起きた
子どものための教育活動家、坪井佳織です。浜松市で音楽教室を20年間やる中で、子どもの教育について日々模索しています。
子どもが本物のお金でお買い物ごっこをしたらどうなるか
音楽教室ミューレで、本物のお金を使って、お買い物ごっこを催しました。その経緯と内容はこちらをお読みください。
本物のお金を使うことは去年からの試みでした。今回、初めて、わたしの提案で「利益の10%を税金として納税する」というシステムを作ってみました。
想定外の利益が出てしまったら、子どもはどうしたか
実行委員は高校生1名、中学生1名、それから小学生が4名でした。ミューレの中でも、強いリーダーシップを持った子というより、素朴で幼くて、どちらかというと目立たない子たちが、慣れないながらも、わたしやスタッフがフォローしたり背中を押したりして、計画を進めていきました。諦めずによくやったと思います。特に高校生は、後輩を引っ張るというより、「同級生より小学生が好き(^^)!」って感じで、同等にいろんなことを楽しめる子ですが、今回ばかりはリーダー不在のため、本当によくがんばりました。
高校生の発案で、「お昼ご飯にカレー屋さんを出そう」ということになりました。調理は先輩と保護者さんからボランティアを募りました。お願いするためのメールの文面も考えました。
前日、有志の実行委員が買い出しに行きました。材料費として、教室から5,000円を貸しました。予算内でやりくりをして、何度も計算し直しながら、材料を決めたそうです。
材料から量を推測、ちょうど材料費とトントンになるように値段を設定しました。ところが、蓋を開けてみたら、5,000円程度の儲けが出てしまいました。
これをどうするか、中学生と高校生、その場にいた小学生数名が、知恵を絞りました。通りかかった人の証言によると、けっこうな迫力で討論していたそうです。特に高校生が、「それは私利私欲になるんじゃないか」と強く言っていたそうです。
わたしが通りかかったとき、中学生が嬉しそうに「先生、バイトってすごい!!500円も手に入りました!」と言いました。そのとき初めて、カレーに利益が出たこと、それを実行委員で分けたことを知りました。「手伝ってくれた方にはどうしたの」と聞くと、「その方たちにも分けた」とのことでした。
なんだかモヤモヤしました。でも、咄嗟に判断ができず、また、子どもたち主体の行事なので、そのままにしました。「う〜ん、なんか引っかかる」と言うと、高校生が複雑そうな表情をしました。他の子は「なぜ?」という感じでした。
保護者様に連絡して回収した
お買い物ごっこが終わり、実行委員は打ち上げのために残りました。コンビニで何か買って来る子がいました。
わたしは、コンビニから帰った高校生と中学生を呼び、「やっぱり、利益を分けるのはどうかと思う」と言いました。すると、高校生が「うん、そう思う。だって、このままだと、実行委員になればお金がもらえるということになってしまう。来年から、それをめあてに実行委員をやる子が出て来るかもしれない。それは違うと思う」と言いました。その表情から、この子は、もともと、何か引っ掛かりがあったのだなと推測しました。
わたしは、「先生も、ちょっと予想外のことで、何が正しいのかは分からない。でも、少なくとも、よく使い道を吟味したと思えないから、もう一度、ちゃんと考えよう。どの子に渡したのか、先生に教えて。保護者さまに連絡するから」と言いました。
該当の保護者様に連絡しました。経緯を説明し、「回収することはしませんが、各ご家庭で・・」と書いてしばらく考え、それを削除して「回収します」と書き換えました。やはり、これはミューレ内で起きたことだから、ここでわたしが指導するべきだろうと思ったからです。保護者様には、以下のメールを送りました。
中高生が自分の中の悪魔と闘うとき
別な日に、中学生と高校生を呼んで話をしました。この子たちには、小学生より少しステップを上げ、自分で考えさせたかったからです。また、年齢が高いということは、それだけ、お金の問題が複雑かつ深くなる可能性がありますから。
もう一点、誰よりもお金を手にしたことを喜んだ中学生が、実はあまりカレーショップに関わっておらず、高校生が若干の不満を口にしていたからです。ここも、きちんと表に出そうと思いました。
ただ・・・、こういうとき、「あなたは何もやらなかったじゃない!」とはならないのがミューレのすごいところです。やりたい子とやれる子がやればいい、とみんな思っています。高校生が言いたかったのは、「それは仕方ないけれど、同じようにお金を手にするのはどうか」という点でした。つまり、「労力と対価」について、高校生はおぼろげながら、疑問を感じていたのです。
まずは、どのような経緯でこうなったのか、詳細を聞きました。「先生も、咄嗟に、このことが良いことか悪いことか、判断ができなかった。それに、あなたたちが人のお金を取ってやろう、しめしめ、儲けたぞ!と考える子ではないということは分かってる。だから、何が問題なのか、ていねいに考えてみよう」と話しました。
よくよく自分の気持ちを振り返ってくれました。山分けすることがものすごく良いことでもものすごく悪いことでもないような、よく分からないままに分けたということでした。高校生がこんな風に表現していました。
なるほど・・・、とてもよくわかりました。それが「幼い」「未熟」というものです。だから教育が必要なのです。
一方、中学生はまだ納得していない様子でした。それもいいのです。納得しないままに、「先生が言ったから」といって、シュンとする必要はありません。
それに、わたしは、この子たちが自分で知恵を絞って、「山分けしよう」と決め、しかも先生に聞かずに実行してみてよかったと思いました。何も考えずに、分からないからといって安易に「先生、儲けが出ました。どうしたらいいですか」と渡されていたら、わたしはわたしの価値観で「正解らしきもの」を判断せざるを得ません。「本物のお金を使って、想定外の利益が出たらどうするか」なんて、正解なんか無いのに。だから、子どもの未熟な判断力ではこのようなことが起きる、ということをやってみてくれて、わたしも学ぶことができました。
わたしは中学生に、「あなたは小さい頃から、お金やお菓子をなるべくラクして手に入れようとするところがある。それに、この高校生に対して、すごく強い態度に出ることもある。あなたが主導したんだと先生は思ってるよ」と言いました。すると、高校生が「それは違う。わたしも山分けしようと言った」と強く反論しました。それで、「そうなんだ、それは分かった。でも、中学生がほとんど準備に関わっていなかったことは先生は知ってる。お金に執着がある、というのは、あなたの特徴だと思うから、それは自分で知っておいた方がいい」と言いました。「お金に執着することそのものは悪いことではない、ただ自分で操縦して良い方向へ出す工夫が要る」と。
わたしの次男の例を挙げ、「特徴は単なる特徴であって、それ自体が良いとか悪いとかじゃなくて、その特徴を理解して、コントロールし、大きくなったときに悪い行動につながらないように、人よりも用心する必要があるってことなんだよ」と伝えました。
次男は、おまつりのお小遣いを、あっという間に全額、射的に使う子でした。なぜそうするのか聞いたら、園児のころに「なんか興奮するから」と言ったんです。だからわたしは、ことあるごとに、「あなたはギャンブルにハマるとたいへんなことになる性質を持っている。やるかやらないかは自分で決めたらいいけど、そのことを知っておきなさい」と伝えていました。そのことを、中学生に話して聞かせました。「だから、特徴がダメだということではない」、「ラクしてお金が手に入った!という経験は、どんどん思いもよらない方向へ自分を引っ張ってしまう。だから、今回のことが問題なんだ」と。
そうして、こんなことを話しました。
ここで、中学生の顔が初めて蒼白になりました。
「先輩として、めちゃくちゃかっこ悪いことをした…」
この子は、自分の中の悪魔には甘かったけど、それを後輩に伝えてはいけないということは、心に響いたんですね。
子どもの心が全部、いつも天使である必要はありません。大事なことは、自分の中の悪魔を、「お前、そこにいるな?知ってるぞ」と、直視し続けることではないかと思います。どんなことがあっても理性が悪魔に負けてはいけない場面に遭遇したとき、「自分の中に悪魔なんかいない」と思っている子は見つめることができない。小さくて弱いうちに悪魔を直視したことのある子は、「お前が悪魔だ!」と睨みつけることができると思います。
この子たちにとっては、カレーの儲けを分けたことそのものが悪魔だったわけではなく、「良いのか悪いのかよく分からないことを自分に許した」ということが悪魔だったのです。
また、ここはたいへん大事なことですが、わたしは一般論として、この子達に何かを指導したのではなく、この子達が特に「判断力が甘く、一度流されたら軌道修正が難しい」という特性を持っていたから、時間をかけ、呼び出し、強く指導したのです。子どもそれぞれの特性に合わせ、どのタイミングで何を指導するか、よく考える必要があると思います。みんな同じではありません。
次の日がパフォーマンスクラス(通称パフォ)という、実行委員全員が所属している、最上位クラスだったので、レッスン時間を少し使って、中高生が自分たちの言葉で「なぜダメだったのか」を小学生に説明し、お金を回収することになりました。
さらにとんでもないことが起こった
次の日、実行委員を全員集め、中高生が説明をしました。「わたしたちが悪かった。先輩として、悪い例を見せて、ごめんなさい」と言っていました。そうして、なぜ良くないのか、とても分かりやすくていねいに、子どもらしい言葉で説明しました。
わたしは、小学生に「お金を手にしたとき、ぶっちゃけ、どんな気持ちだったか」と聞きました。
すると、「いいのかなと思いつつ、やったー!と思った」という意見が意外と多かったのです。この子達は小5〜小6です。最初に説明した通り、どちらかというと目立たず、おとなしく、年齢より幼く(良い意味で。うぶ、という意味)、まじめな良い子たちです。
そんな良い子たちが、なぜ「やったー」と思うのかというと、それは「未熟だから」です。子どもだから。ここを大人は間違えてしまいます。「良い子」は常に模範的で、大人から見た正しい行動が取れると思っています。それが教育を甘くし、子どもを追い詰めます。「知らないのだから教育する」というフラットな気持ちで見てあげることが大切だと思います。
お買い物ごっこをして、自分の商品やサービスを売ったお金を手にすることと、カレーの売り上げを山分けすることの差がよく分かっていないのです。中高生になると、なんとなく、うっすら、「良いのかな、ダメだよな」という心の揺れが大きくなります。そのことがこの一件で、よく分かりました。
「そういうわけで、お金は一旦、回収するね」と中高生が伝えると、ある小学生が「あとからもらった580円は?」と言いました。
ここでさらなる大問題が発覚しました。
なんと、各出店者から回収した税金も、山分けしたことが分かったのです。
しかも、今度は、小学生に相談することも、どうすべきか話すこともなく、中高生ふたりが決め、お金を渡した、というのです。渡したのは、お買い物ごっこが終了して、打ち上げをやっている最中だったそうです。
別な小学生が、「親が、そっちの方が問題なんじゃないかって言ってた」と言いました。でも、その声色は、本当には理解していないトーンでした。「親が言ったから」というだけの。
え〜〜〜〜・・・なんと。。。正直言って、カレーの儲けどころの騒ぎではありません。これはまずい!と思いました。
このときばかりは、有無を言わせず、事情も聞かず、「それは大人の世界では一発アウトです。あなたたちは二度と実行委員をやることはできない。信用とはそういうことだよ」ときつく叱りました。あまりのできごとに、本当は10分〜15分くらい、レッスンの中で話すつもりだったのを、パフォ全員(30名弱の小5〜高1)に助けてもらうことになりました。
こうして冷静に書き留めてみると、「まさに、これがお金の麻痺」ということだと思います。本当に、今ここで起こってよかったです。
「なぜ?」「自分だってそうしたと思う」
急遽、レッスンを中断し、パフォクラスの子に経緯を説明しました。特に高校生の子は、ガタガタと震え、顔色も悪く、途中で座り込んでしまいました。自分の中にぼんやりと巣食っていた「うしろめたさ」がついに爆発して自分を支配したのだと思います。相当に応えている様子で、これ以上、責めることはしなくていいなと感じました。
聞いた子どもたちがどう考えるのか、とにかくフラットに子どもの意見を聞きたい、先生もこれ以上、善悪で責めるつもりはないんだ、ということを補足しました。
すると、子どもたちから口々に出たことは、「やってしまったことはもうしょうがないし、ものすごい悪意だとも思わない。ただ、なぜ、そうしたのか知りたい」ということでした。
「なぜ?」、ただシンプルに、これを聞いていました。聞かれた子たちも、真摯に、正直に、どう考えたのかを自分の言葉で説明していました。すると、聞いていた子どもたちから「自分もそう考えるかもしれない」という意見が少なからず挙がりました。なるほど、そうなんだ・・・。
特に、「もらったお金をすぐその場でコンビニで使った」ということに関しては、ほとんどの子が「もし、自分のお金(おこづかい)と、このお金の両方があったとしたら、自分も先にこのお金を使う」と言いました。「だから、使ってしまった気持ちはわかる」と。
私利私欲とは何か
税金の使い道については、お買い物ごっこの案内メールには「私利私欲には使いません」ということが書いてありましたので、「私利私欲の使い方とは何か」ということに焦点が当たりました。
予想外だったことは、「実行委員で分けることは私利私欲ではない」という意見がけっこう出たことです。
子どもの考えでは、「買い物ごっこは面白かった。それは実行委員のおかげだから、実行委員がお金をもらうことは私利私欲ではない」とのことでした。なるほど・・・。
他に、「ひとりひとりの手に渡った時点では私利私欲かもしれないけど、たとえば、その先、ミューレのみんなが喜ぶような使い方をしたとしたら、それは私利私欲ではないと思う」という意見もありました。逆に、「誰か個人の手に渡った時点で、どのような使い方をされようと、それは私利私欲だ」という意見もありました。
わたしは、「分けた」という時点で「なんてことをしてくれたんだ!」と思ったのです。でも、子どもたちの意見を聞くうちに、もしかすると、本当にこれが正当な使い道だと考えたのかもしれない、と思うようになりました。実際、分けた中高生には「これは私利私欲ではないのでは?」という考えがあった、ということが分かりました。でも、「ないのでは?」という程度で、「私利私欲かも」という、若干のうしろめたさもあったそうです。だから手にしているのがしんどかった、と。
吐きそうな顔をしていた高校生も、他の子の意見をたくさん聞けて、最後には「税金のことがバレてよかった」と思ったそうです。先生に言わなくては、と思いながら、言う機会を逃して、とても苦しかったようでした。分かってやって、一生抱えさせずに済んで、本当によかったです。
誰の責任か
事の経緯を説明したのは中高生ふたりでした。「自分たちが悪かった。小学生を巻き込んだ」と言うと、同じクラスの中学生が大きくうなづきました。「それではいけないよね」という様子で。
そうしたら、実行委員の小学生が「わたしたちも、ろくに考えずに受け取って、使ってしまった。少し考えたら分かることだったのに。だから、先輩たちだけのせいじゃない」と言いました。聞いていたクラスの小学生も、「小学生だからって、乗っかるだけではダメだったと思うよ」と言いました。責める口調ではなく、「わたしもいっしょに考えるから」というような、寄り添う言い方でした。
まぁ、誰の責任かといえば、すべてはわたしの責任です。が、子どもたちがそれぞれ、なんなら実行委員以外の子も「自分ごと」として考えることができたことで、誰かを責め立てるような話し合いにはならず、よかったです。
カレーの利益と税金はどう使うのが良いのか
こうして、ある一定の善悪感に基づくのではなく、子どもたちの思考の経緯や発達、個々の特性、集団心理など、「なぜこのようなことが起きたのか」ということについて、あらゆる方向から考えることができました。実行委員たちもとてもスッキリした顔をしていました。
若干、過度に反省し過ぎて、「みんなに謝罪して回る」と言い出したので、「そこまで過度な善悪に囚われる必要はない。十分、よく考えて、対応したよ」と伝えました。少し飛躍しているかもしれませんが、日本の道徳教育はどうも「反省と謝罪」を解決方法だと教えている風潮があるような気がします。これが「できるだけ失敗しないように、自主的に行動しない方がマシ」という行動パターンにつながっていると思います。
今回のことは、「子どもたちが、今の未熟な判断力で考えて行動したらこうなった」というだけの話です。「ではどうするか」を自分たちで考えることが大切です。
さて、「カレーの利益」と「税金」について、パフォクラスの知恵を借りて、使い道を考えることになりました。
クラスをふたつに分け、それぞれ「カレーチーム」と「税金チーム」で考えました。ここでわたしが考え方のポイントを伝えました。特に税金は、「おりこうさんになる必要はない。子どもらしく、自分たちの利益だけを考え、最終的に子どもたちの賛同を得られたらなんでもよい」と言いました。
わたしはカレーチームの話し合いに参加しました。
すると、「ミューレの消耗品(ティッシュなど)」や「イベントのお金」に使おう、などの案が出ました。わたしは、「ミューレには要らない。それはミューレの必要経費だから、先生たち大人が考えることだから」と言いました。すると、子どもたちは「先生が要らないと言ったって、わたしたちはミューレのために買うだけで、先生のためじゃないんだから、いいじゃないか」と言いました。先生に反論できるのが、ミューレの良いところです(笑)。
それで、わたしが「う〜〜ん、、なんか違うんだよなー」と言うと、しばらく考えて、ある子がこんな風に言いました。
「このお金は、本当は存在しちゃいけないお金だからってことじゃないかな。ミューレの消耗品を買うと、わたしたちは良いことをした、良い使い道だと思ってしまうけど、結局、それだってミューレの私利私欲ということになるんじゃないか」
わたしが「そうそう、先生が引っかかるのはそれ!」と言うと、別な子が「だったら、元々、無いお金なんだから、寄付に使うのはどうか。わたしたちはカレーを食べられたけど、世の中の、カレーを食べられない子にカレーを食べてもらうのはどうか」というアイデアを出し、満場一致で「それだ!!!」と決定しました。誰の心にも、「それが1番いい!!」という納得が広がりました。それで、「子どもがカレーを食べられる寄付先があるか」は宿題として持ち越されることになりました。
税金の使い道については、なかなか考え方が難しく、カレーチームも含めて、5人程度のグループに分かれてもう一度考えることになりました。
甘噛みハムハムがいい!
わたしは、とあるグループの話し合いを見ていました。すると、Kくんが「先生、提案があるんだけど、画像を見せないと分からないと思うから、パソコンで検索して欲しい」と言い出しました。
それがコレでした。
wwwwww
クククク・・・
グループの子にKくんが紹介すると、同じグループの小6男子ふたりがひっくり返って笑いました。Kくんは「これなら、待合室に置いておけば、赤ちゃんから大人まで、みんなが癒されて楽しめる」とプレゼンしていました。特に他のいいアイデアもなく、このチームからは甘噛みハムハムを提案することになりました。
ホワイトボードがいっぱいになるくらいのアイデアが出ました。それぞれのアイデアが実現可能かどうか、予算に適合するか、入手可能か、デメリットとメリットはどうかなど、全体の話し合いが進みました。話し合いのファシリテーターは、Rくんという高1男子が務めました。
最終的に残った案は、
・災害時用の食品
・1年中飾り付けできる大きなクリスマスツリー
それから、Kくんが甘噛みハムハムを強力に推して、この3つに絞られました。
しばらく話し合いを聞いていましたが、わたしが「災害用の食料や簡易トイレ、お水などは用意してあるし、3日も4日もミューレ内で子どもたちが生き延びなくてはいけない状況が少し考えにくいので、大丈夫だと思う」と伝え、甘噛みハムハムとクリスマスツリーに案は絞られました。
後味の悪い多数決
パフォクラスは全部で25名程度の子どもが所属しています。
2案に絞られたあとは、Rくん司会の元、25名が輪になって話を進めていました。するとどういうことが起きるかというと、タイミングを掴んで発言する子が数名に限定されてくるということです。
たまたま、この「発言力のある子たち4〜5名」が、クリスマスツリー案に集中しており、理路整然と、甘噛みハムハムだと何が問題か、ツリーだと何が良いか、プレゼンしていきました。
なんとか話し合いで決定したい子どもたちは、Kくんに「ここまで聞いても、やっぱり、甘噛みハムハムがいい?」と聞きました。みんなの心に「なんとか納得してもらって、丸く収まりたい」という空気が流れていたと思います。
でも、Kくんは折れませんでした。
そこで、Rくん仕切りで、目を伏せて、多数決が取られることになりました。誰がどっちに挙げたか分からないようにした、というわけです。
先にクリスマスツリー。
17票でした。
次に甘噛みハムハム。
ここで大問題が発生しました。甘噛みハムハムが一票だったのです。(合計数が合わなかったのは、数え間違いとか、ちゃんとはっきり挙げてない子がいるとかだったと思います)
司会のRくんが「えっ・・・」という顔をして、とても辛そうに「1」と書きました。
みんなが顔を上げました。おふざけが好きな男子が、大きな声で「いちぃ?!」と言って笑いました。それを、「しっ!!!黙って!!そんなこと言わなくていい!」と、他の子がたしなめました。しーん・・・。地獄のような空気が流れました。
そして、Kくんが壁の方を向いて、しくしく泣き出しました。「1なんて・・・」と言って。けれど、Kくんのすごかったのは、泣きながら「納得ができない。来週に持ち越して欲しい」と言ったことです。そうしよう、ということになりました。
この後、司会をしていたRくんがとても落ち込んでいたそうです。「自分の持っていき方が悪かった。本当にかわいそうなことをした。ああいうときのKくんの辛さを自分も経験したことがあるのに、やってしまった」と。
このとき、話し合いを聞いていた大人はわたしを含めて4名いました。それぞれの大人が、「甘噛みハムハムか、クリスマスツリーか。税金をどう使うか」ということについて、それぞれ、思ったことを次の週までに語り合う時間がありました。「言わずにいられない」という感じで。Rくんの苦悩を想いやって泣いたスタッフもいました。大人も本気でした。
一票の重み
次の週は、みんなが待ちに待ったクリスマス会の予定でした。でも、わたしは「最初に少し時間が欲しい。話がある」と言いました。みんな、覚悟を決めたような顔で集まって座りました。
わたしは、1週間、わたしが善悪を裁判することなく、どうしたら子どもたちの心に自分ごととして問題提起ができるか、どんな話をどんな言い方で伝えたらいいか、ずーっと考え、シミュレーションしていました。
最初にこう言いました。
「先生が何の話をしたいか、分かる?」
中2男子が「1対17になったこと」と言いました。わたしが「そうだよ。じゃあ、なぜそれが問題か分かる?」と聞くと、別な子が「あまり何も考えずに流された結果だから」と言いました。1週間、ちゃんと考えて、分かってるんだなーと思いました。それで、なぜ、このことを問題視して欲しいか、伝えました。
ここまで話したら、子どもたちがパッと立ち上がって、行動を起こしました。ある子のアイデアで、「発言力のある子とない子でグループに分かれよう」ということになりました。こういう分け方が通用するのが、ミューレの本当に良いところです。子どもは本当は「みんな同じ」ではありません。特性として「発言力があるかないか」、もし2つに分けるとしたらどう分かれるか、ということは、差別とかじゃなくて、子どもたちは分かっています。「公平」という大義名分の元に、まるで無いかのようにされているだけです。これが逆に諍いを生みます。本当は、誰も文句を言わず、「だよね」って感じで2つに分かれることができます。
発言力のある子とない子
発言力ありチームでは、「先週は何とかクリスマスツリーにしようとして、甘噛みハムハムのデメリットをあんな風に言ったけど、1週間、冷静に考えたら、それはクリスマスツリーでも同じじゃん、って思った。先生の話を聞いたら、確かに、ツリーは放置されそうだ、だったら甘噛みハムハムの方がいいかも、という気がしてきた」という意見が出ました。
そうしたら、「先生はわたしたちよりもっと発言力があるから、それは逆に先生に流されてるだけじゃない?」と言った子がいました。いやぁ、本当にその通りです(笑)。
ここでKくんが「僕は何としても甘噛みハムハムにしようとしたわけじゃない。クリスマスツリーを嫌だと思っていたわけでもない。もし、僕を入れて二票でも三票でもいい、誰かいてくれたら、納得できたと思う。一票っていうのが辛かった」と言いました。
わたしは、発言力ありチームに、こんな話をしました。
一方、発言力なしチームの子も、自分たちを振り返っていました。ある子が「発言力のある子の意見を聞いていると、あぁすごいなー、自分はあんな風に言えないなーってなって、自分の意見なんてたいしたことない、あんなに上手に話せないって思うから言わなくなる」と言いました。「言えなくなる」ではなく、「言わなくなる」というところがすごくいいなと思いました。
両方買おう!
わたしは、ここで、これ以上「甘噛みハムハムか、クリスマスツリーか」の議論を進めてどちらかに決めるのは、子どもには負担が大きすぎ、落とし所を見つけることは難しいと判断しました。「マイノリティの存在を浮上させる」だけで十分だと考えました。
それで、ある一人の子の「カレーの利益と税金を一度全部集めて、両方買って、減るかもしれないけど、残ったお金を寄付するのはどうか」という意見を採用することにしました。
甘噛みハムハムの名前は公募することになりました。ツリーの飾り付けはどうなるのでしょうか。楽しみです。
問題を起こさせること
わたしは、こういうことが起きたときに、大人が安易に
「えぇ?
ミューレに通っている子でも、税金を山分けするんだ!」
と驚くのが嫌いです。
他にも、「先生の子でもそうなるんですね」とか、「ミューレの子でも決められないんですね」みたいな、「この子なら大人が納得する正解を出す」という思い込みで子どもを見ることが、子どもの成長、教育、自分軸を邪魔していると思っています。
今回、カレーの利益といい、税金といい、思いもよらないことが起こりました。起こしてくれて、実行委員の子たちには感謝しかありません。またひとつ、わたしの「大人として凝り固まった子ども観」をぶち壊してもらいました。
わたしたち教育者は、子どもを「大人の考える正解」に導くことが仕事ではありません。いつも子どもの発達に寄り添い、共に考え、本気で向き合う大人でいたいと思います。
それから、子どもたちが起こしてくれたことは、「税金を集めたとき、人はどうなり、どう考え、どう行動するか」ということに対して「なるほど」という発見の連続でした。今までは「個人が手をつけるなんてとんでもない」と思っていましたが、人間は簡単に麻痺したり、判断力を失ったりするのかもしれない、だとすると、善悪だけで糾弾するのではなく、どんなに弱い人間でも、そもそも手をつけることが不可能な仕組みを作る方が、人の良心だけに任せるよりも現実的なのではないか、と考えるに至りました。
さまざまなことを考え、学ぶことのできた事件でした。