見出し画像

増田達至引退。重圧と戦った男

※プレー中の写真提供@u_u_u_u_chi

あなたは1点リードの9回のマウンドに上がったことがあるだろうか?オレはない。
いや、もちろん代打で送りバントを命じられたことも、失敗すれば試合終了の場面で盗塁に挑戦したこともない。
それでも「1点リードの9回のマウンドに上がる」ことの恐怖は想像が付かない。
先発投手が打たれて負けても、抑え投手が打たれて負けても、記録の上では同じく1敗だ。
しかし終盤の逆転劇は劇的だ。逆転したチームとそのファンは大盛り上がり。逆転された方は精神的にダメージを受ける。
時には先発投手の勝ちが消えることもある。あってはならないことだが、誹謗中傷されてしまうこともあるだろう。
それでいて無失点で抑えても、大々的に賞賛される機会は多くない。

ドラゴンズ・落合博満監督を描いた「嫌われた監督」にはこんな描写がある。
鉄腕・岩瀬仁紀をクローザーに指名した時の森繫和コーチの逡巡。

「もう一つの気がかりは、岩瀬が体質的に酒を飲めなかったことだ。酒を飲まずに、どうやって負けた夜をやり過ごすというのか・・・。(中略)
負けた夜は、その負い目と臆病になりそうな自分を忘れるために酒を飲んだ。逃げ場がなければ、とてもやっていけなかった」

嫌われた監督

あの強面の森繁和コーチですら「酒がないとやっていけない」という抑えというポジション。
そんなポジションに球団史上最も多く立ち続け、194のセーブを積み重ねた増田達至が今季限りで引退する。重圧と戦い続けた増田の歩みを振り返る。

2012年秋のドラフトでライオンズは東浜巨(亜大)に入札するも抽選を外し、「外れ1位」として指名したのがNTT西日本の増田だった。

2012年新入団選手発表会

入団した増田は当初からセットアッパー・クローザー候補として期待され、6月13日ドラゴンズ戦の11回表にプロデビューのマウンドに立った。
しかし先頭打者のピッチャー返しの打球が増田のスパイクに当たり内野安打となると、続く打者のセカンドゴロを鬼崎裕司が弾きエラー。1死から井端弘和をセカンドゴロ併殺打に打ち取ったかと思われたが、今度はベースカバーに入ったショート浅村栄斗が一塁へ大暴投し勝ち越し点が入ってしまった。
増田に自責点は付かないものの、プロ初登板で黒星。自らの責任はほとんどないとはいえ、チームが敗れたその夜に増田は何を思ったのだろうか。
 
余談だが浅村はこの年は基本的にファーストを守っており、交流戦のDHが使えない試合を中心に時折ショートを守っていた。この日もファーストでスタメン出場し、途中からショートに回っていたものの、この日を最後に一軍では一度もショートを守っていない。送球難からいずれコンバートされることは予想されていたものの、今振り返るとターニングポイントとも言える試合だった。

増田初登板時のスコアボード

 
マリーンズ吉井理人コーチ(当時)が取り入れた「3連投禁止」が球界全体に浸透した2024年から見ると、2013年当時の球界の投手起用はなかなか無茶だ。ライオンズの運用自体が優秀ではなかったが、他球団でも似たようなものだった。
ライオンズは9月1日にベテラン・西口文也を先発に立てるも、アウトを1つも奪えず3失点KOされてしまうと、増田がリリーフ登板。3者連続でアウトを奪って初回を終わらせると、その後もマウンドへ登り続ける。結局6回2死に同期・高橋朋己にマウンドを譲るまで5.2回76球を投げ続けたのだった。
2024年の感覚であれば、これだけ球数を投げれば登録抹消かロングリリーフ待機になりそうなものだが、中4日で9月6日にリリーフ登板している。更に言えば1日の登板自体、8月30日に20球を投じてから中2日でのマウンドだった。


また9月下旬には再び先発へ回り、イーグルスの優勝が懸かった9月26日に4.1回62球、CS進出に向けて負けられない10月3日ホークス戦でも2.1回50球を先発として投げる。しかも中2日空けて6日ファイターズ戦ではリリーフに戻り2回31球。当時には当時の感覚・常識があるとはいえ、2024年にこんな起用をしたら「酷使」と言われることは間違いない。そんな中でも平然と腕を振り続けた増田の身体の強さには感服するしかない。

増田2度目の先発時のスコアボード

 
2013年はD.サファテや涌井秀章が抑えを務めていたものの、ともにオフにライオンズを退団。その後は同級生の高橋朋己と共にブルペンを支える。2014年には22ホールドをマークすると、2015年には40ホールドで最優秀中継ぎのタイトルを獲得する。増田は引退発表までに109ホールドを記録し、球団のホールド記録保持者となっているが、そのうち67が2015年までに稼いだものだ。
そして2015年後半戦に転機が訪れる。開幕から順調にセーブを重ねていた高橋朋己が夏場に失速。9月8日バファローズ戦では2点リードの9回に高橋が2死1・2塁のピンチを招くと増田の名前が告げられる。安達了一を打ち取り、同級生が作ったピンチを凌ぐ形でプロ初セーブをマークしたのだった。

2016年も開幕直後こそ高橋朋己が抑えを務めたが、高橋が肘痛で離脱すると増田が本格的に抑えを務めるようになる。大崩れすることも少なく終わってみれば53登板28S。見事に抑えの大役を全うした。
 
辻発彦監督が就任した2017年で印象に残っているのは6月11日のベイスターズ戦だろう。1点リード、2死1塁の場面で宮崎敏郎を迎える。増田は2日前に宮崎に逆転2ランを浴びており、球場の誰もがそれを意識する場面。ここでマウンドへ向かったのは土肥義弘投手コーチ…ではなく辻監督だった。辻監督は茶目っ気も交えて「一回行ってみたかったんだ。みんな守っているし全力で投げろ」と声を掛けると、増田は宮崎を初球で片付け、チームに勝利を呼び込んだ。

 
2018年、超打高投低のチームの中で増田も苦しみ、途中加入のD.ヒースに抑えの座を明け渡す。
雪辱を誓った2019年は増田にとって飛躍のシーズンとなった。4月にヒースから増田に抑えが戻ると抜群の安定感を見せ、黒星は僅か1つ。球団最多81登板と投げまくった平井克典と合わせて、「平井・増田に繋げば大丈夫」という雰囲気が出来上がっていく。9月11日ホークス戦では節目の通算100Sを達成するとともに、チームは130試合目で初めて首位に立ち、逆転優勝へ向けて大きな白星を掴んだ。

 
この頃にはブルペン陣でも年長になっていた増田は後輩からも尊敬を集めていた。印象的だったのは9月15日のマリーンズ戦。増田が前日まで連投していたため、平井が1点リードの9回のマウンドに上がる。この日が76登板目の平井。あらゆる場面で投げ続けてきただけに、9回でもしっかり抑えてくれると思ったがそうは問屋が卸さない。荻野貴司にタイムリーを浴びてあっさり同点に追い付かれてしまった。
平井は後にこの時のことをこんなふうに振り返る。

「きっちり失敗しました(苦笑)。あんなところで長年、投げ続けられる増田さんの精神力はすごい」

2020年埼玉西武ライオンズファンブック

「リードしている展開で初めて9回を投げて、そのイニングを投げ切るしんどさ、難しさを改めて感じた」

週刊ベースボール2019年10月14日号

同じように胃がキリキリする場面でも結果を出し続けてきた平井ですら平常心で挑めない9回のマウンド。抑え投手の難しさをこれ以上ないくらいに物語っている。

 
そして増田に歓喜の時が訪れる。9月24日のマリーンズ戦。既にマジック対象のホークスが敗れており、勝てば優勝が決まる9回のマウンド。大量リードの場面で胴上げ投手に指名されたのが増田だった。マウンドで辻監督が待ち受ける。「楽しめよ」と声を掛けられた増田はいつも通り淡々と腕を振り、最後はL.マーティンを空振り三振に仕留める。2年連続のリーグ優勝を決め、両手を突き上げ森友哉と抱き合うシーンはライオンズファンの脳裏に深く刻まれている。増田にとっても全てが報われた瞬間だっただろう。
 

 
2020年、絶好調の増田はシーズン無敗のまま33Sを積み上げセーブ王に輝く。史上3人目の快挙だったが、ライオンズファンにとっては気掛かりなことがあった。前年オフに複数年契約の提示を断り、国内FA権を取得していたのだ。数々のFA移籍を経験してきたライオンズにとって「複数年契約の提示を断る」ことはお別れの始まりに等しい。今となっては冗談のような話だが、増田が赤いグラブを使用していたことから、赤いチームへ移籍するのでは…という話がまことしやかに囁かれていた。
ライオンズファンにとってはオフに入ってもヤキモキする日々が続いたが、12月4日に吉報が届く。宣言残留した上で4年契約を結ぶことが発表されたのだ。残留を願うファンから届いた手紙を手にする増田の姿にライオンズファンは心揺さぶられたのだった。
 

 
残留した増田はブルペンでは最年長となるが、若手投手との壁は全く感じさせず、むしろ増田からはコミュニケーションを取ることで、明るく一体感あるブルペンが作られていった。球団公式YouTubeチャンネルの「勝利のハイタッチ動画」でも、水上由伸・宮川哲・ボー・タカハシらが「達至のおかげです!」と連呼する姿はすっかりお馴染みになった。
ライオンズが何度も経験してきた主力選手の移籍は、単純な戦力ダウンの問題もあるが、先輩の背中を見て育つことが出来なくなってしまうことも大きな問題だ。その点で十分な実績を持ち、人格にも優れた増田が残留してくれて本当に良かったと思う。

 
4年契約の最終年となった2024年。抑え候補としてA.アブレイユが加入し、増田としては勝負の一年だった。キャンプからハイペースで調整を行ったが、5月26日の登板を最後に登録抹消。ここまでは仕方ないが、悔やまれるのはその後だ。
二軍で1登板した後、6月12日に上田大河が腰痛で登録抹消となると、二軍戦で鎌ヶ谷にいた増田は急遽ベルーナドームにいる一軍に合流。14日のベイスターズ戦で登板するも、全くボールが走らず4安打2失点で再び二軍に戻ることとなった。そして一軍に戻れないまま9月に引退が発表された。
立場が厳しい投手はそういうこともあると言ってしまえばそれまでだが、しっかりと二軍で調整した上で一軍でその姿を見たかったのが正直なところだ。
 
9月24日。胴上げ投手となってから丸5年を迎えたこの日、ベルーナドームで「二軍の引退試合」を迎えた増田の表情は晴れやかだった。チームの勝敗を背負い、ファンの想いを背負い、淡々と無表情でマウンドへ向かっていた増田が明るい表情でマウンドへ向かっていく。球団公式YouTubeチャンネルで「大好きな野球がここ数年苦しい野球に変わっていた」と語っていたが、「大好きな野球」を取り戻せたのではないだろうか。
 


 
増田は救援登板・ホールド・セーブの3部門で球団トップに立っている。改めてそのランキングを記す。

救援登板
557増田達至

453橋本武広
452稲尾和久
438星野智樹
434永射保
 
ホールド(2005年制定)
109増田達至

105星野智樹
104平井克典
103平良海馬
68武隈祥太
 
セーブ
194増田達至

135豊田清
82森繁和
73鹿取義隆
59小野寺力

ライオンズ史上、荒れたマウンドに最も立ち、点差を保って次の投手に最も渡し、勝利を最も決めた男。
負けない気持ちを携え、重圧と戦い続けた増田達至の12年間に心から拍手を送る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?