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日本最西端の島で初対面のおじぃに一からヤギ汁を作ってもらった話


一から、というのは言葉通り本当に一からで、その時私達は子ヤギを母ヤギから引き離すところから、全てを見ていた。



もう何年の前の話。大学生の長すぎる春休みを使って、友人4人と沖縄の離島を自転車で巡っていた。

いくつか島を周って、せっかくだから日本の最西端に行こうということになり、石垣島から与那国島行の飛行機に乗った。

お金はないけれど時間だけはある私達は本当は片道4時間かかるフェリーで行こうとしていたが、そのフェリーがあまりの揺れの酷さに地元民から「ゲロ船」「洗濯機を船に載せたら揺れで飛び上がっていた」という話を聞いて恐れをなし、やむなく飛行機を選択したのだった。



でも、その飛行機がおじぃに繋がる運命の糸だった。



始めの出会いはおじぃではなく「ゴメスさん」だった。

誰だそれ?

と思った。与那国空港に到着し、飛行機を降りて合流した友人はたまたま隣の席に座ったらしい、30~40代の男性と親しげに話していて、顔立ちは濃いもののどう見ても日本人の彼は自らを「ゴメス」と名乗った。
なんでも、与那国にはサトウキビ畑のバイトで長く滞在したことがあり、せっかくなので車で案内してくれるとのこと。

この時点でかなり、怪しい。

小さい時から知らない人の車に乗ってはいけないと教えられてきたので一瞬、車に乗せられてそのまま帰ってこれないのではと疑ったが、そんな目的の人が与那国まで来るわけがない。そもそもこんな孤島で人を誘拐しても売り飛ばす場所も隠しておく場所もない。

頭によぎった疑念を振り払い、地元民との交流に飢えていた私達は、島をよく知る人に案内してもらえるせっかくのチャンス、とゴメスさんの案内で島を周ることにした。


「知人に迎えにきてもらう」とゴメスさんがスマホで連絡をして待つこと10分、迎えに来た軽トラを運転していたのが島のおじぃだった。
(沖縄ではお年寄りのことを「おじぃ」「おばぁ」と呼ぶのだとゴメスさんに教えてもらい、それからは初対面の私達もおじぃと呼ぶようになった。)

持ってきた自転車と2週間分の荷物が入ったサイドバックを空港に置き去りにし、私達5人は軽トラの荷台に乗り込んだ。



おじぃは島をぐるっと一周しながら、かつて島がサトウキビの加工で栄えていた頃は収穫の時期になると大勢の季節労働者がやってきたこと、2週間後に迫った天皇皇后両陛下の来島に合わせて島を挙げた準備が進んでいること、島に2つしかない信号は交通整理のためではなく、島の子どもが本土へ出た時に初めて信号を見て困らないように教育目的で作られたこと、などを話してくれた。

島一周ドライブの途中でおじぃは製糖工場やサトウキビ畑にも連れて行ってくれた。
おじぃに勧められるままに、これ絶対後でお腹痛くなるやつだと思いながら、なぜかサトウキビの葉っぱに溜まった雨水を飲んだ。

幸い、お腹は痛くならなかった。


ドライブを終えて空港まで戻ってくると、おじぃとゴメスさんは今夜おじぃの家で飲むから来ないかと誘ってくれた。
私達は行きます、と二つ返事で答え、後でゴメスさんに宿まで迎えに来てもらう約束をして一旦別れた。


その後、せっかく自転車を持ってきたのだから、とついさっきおじぃの軽トラで周った道を自転車で爆走し、なんとか間に合って西の岬から日本で一番遅く沈む夕日を眺め、くたくたに疲れて宿に帰った。


日が沈んだ後、迎えに来てくれたゴメスさんの車に乗っておじぃの家に向かった。
おじぃの家は頑丈そうなコンクリートの平屋で、玄関を入るとだだっ広い居間に長机が置かれ、おじぃの他にも何人かおじぃ達が集まって焼酎を飲んでいた。

おじぃが出してくれたカジキマグロの刺身を食べながら泡盛を飲んだ。
途中からおじぃは大量のパクチーの天ぷらを出してくれるようになった。
次から次へと出てくる無限パクチーを前に、パクチーが苦手な私は必死で息を止め、ろくに噛まずにお酒で喉の奥に流し込んだ。


夜が更けていくと、次々に島の人がおじぃの家に集まり始めた。
中には20代、30代の若い人もいて、おじぃがそのうちの一人の女の子に宇宙人に誘拐された時の話を始めた時は嘘くせぇ…と思ったが、あまりにもその子が真剣に聞くのでつられて真剣に聞いてしまった。

いや、でも、畑にいた時に空から来た光る船に吸いこまれて宇宙人に捕まり、色々あって解放されたなんて、どう考えても嘘である。


おじぃはかなり飲んでいて、顔が赤く、気持ちよさそうだった。
そんな中、ヤギ汁の話になった。

与那国ではお祝い事があるとヤギを「つぶして」(島の言い方で、食用のために動物を殺すことをつぶす、というらしい)大鍋で煮込み、ヤギ汁を作るとのこと。
あんたらせっかく来たんだし明日ヤギ汁作ってやるよ、とおじぃが言った。


地元の人が作るヤギ汁なんて滅多に食べられるものではない。私達はにこにこして、ありがとうございます!と喜んだ。


でも内心、誰もおじぃが本気だと思わなかった。
今日会ったばかりの見ず知らずの旅人のために大事なヤギを食べさせてくれるわけがない。こんなに飲んでいるんだし、どうせ明日になったら忘れてるんだろうな、と思っていた。


夜も更けて宴会はお開きになり、私達5人はゴメスさんの案内で、星がよく見えるという島の端の岬の道路に寝ころんで星を眺めた。

車に轢かれる心配はないけれど馬に踏まれる不安がある道路に仰向けに転がって見たのは、降ってきそうな程の満点の星空だった。

今日の朝まで全く知らなかった人と島を周り、食事をし、お酒を飲み、星を眺めている。
こんな形で人と繋がることができるなんて、と出会いの不思議を想った。



次の日の朝。
ゴメスさんの案内で、海が綺麗に見えるという島のビーチに遊びに行った。
3月の沖縄の海は泳げる気温ではなかったけれど、生い茂る草をかき分けて辿り着いた誰もいない白浜のビーチは美しく、膝まで海に浸かって蟹や貝を取って遊んだ。

昼前になっておじぃが軽トラで迎えに来た時、私達はまだ事態を呑み込めいなかった。


今からヤギつぶしに行くよ、とおじぃが言った。


まだ、半信半疑だった。
酔った勢いでしたと思っていた約束をおじぃが守ろうとしていることが、自分の大事なヤギを今日には帰る私達のために殺して振る舞おうとしてくれていることが、信じられなかった。

軽トラで走るおじぃの後ろを自転車でついていった先は小高い丘の斜面に作られた放牧地で、親子のヤギが草を食んでいた。

おじぃは親子に近づくと、ロープを出して母ヤギの首に引っ掛けた。何かを悟ったのか、母ヤギはしきりに鳴いて逃げようと暴れたけれど、おじぃは強かった。
母ヤギの足に纏わりつく子ヤギを引き離して、おじぃは軽トラの荷台に母ヤギを載せた。


私は呆然としてそれを眺めていた。もはや、どんな感情を抱けばいいのか分からなかった。



食べるために殺す。




19年間、いきものの命を食べ続けて生きてきたくせに、その命を奪う現場は見たことがなかった。

日々の食事がどうやって出来ているのか、直視するのが怖くて見ようともしてこなかった。
「ヤギ汁を作ってもらえる」と聞いて無邪気に喜んでいた昨夜の自分は、ヤギ汁を作るために死ぬヤギがいることは頭ではわかっていても、実際のところそれがどういうことか、何もわかってはいなかった。

今になってようやく事の重大さに気づいてももう遅く、おじぃは淡々とヤギ汁の準備を始めていた。


混乱した頭の中で、これから行われることは自分の人生にとって大きな意味を持つ、絶対に目を逸らしてはいけない、ということを、それだけをつよくつよく、思っていた。


私には今から行われるすべてを見届ける義務がある。



家に着くとおじぃは荷台からヤギを下ろし、庭に連れて行った。

死期が近づくのが分かるとヤギは吐くんだ、さっきまで食べていた草を吐くから緑色のゲロが出る、とおじぃは言った。
何かを悟ったヤギは、必死に鳴き叫んでいた。


庭先の水道のそばで、おじぃはヤギの頸動脈を切った。


血があふれ出して、庭に流れた。
目を逸らしたくなる気持ちと必死で戦った。この場面の色を、匂いを、温度を、全て心に焼き付けないと、と思った。


おじぃに促されて、死んでいくヤギの体を撫でた。
さっきまで温かく柔らかかった体が、温かさはまだ残っているのに固くこわばり始めていることに驚いた。

その瞬間、この体はもういきものではない、と直感的に思った。
「死」とはこういうことか、と初めて頭ではなく、体で悟った。

柔らかかったものがこわばり、硬直していくこと。

それは、親戚のお葬式にも出たことがなかった19の私が目の当たりにした、初めての死だった。

その時の手触りと衝撃は、何年経ってもありありと思い出せる。


おじぃの庭には昨日の宴会に来ていた若者やおじさん、おじぃ達が集まっていた。ヤギの皮を剥ぎ、肉を切って、大きな大きな鍋に入れて庭でそのまま煮込んだ。庭に落ちた血はホースの水で洗い流した。


初めて食べるヤギ汁の味は、野性的だった。肉は固く、獣の匂いがした。
今までならくさいと感じていたであろうそれは、ついさっきまで動いていたいきものから作られた食事であることを強く意識させた。
今見た光景を、感じた気持ちを、忘れたくない、と食べながらつよく思った。


飛行機の時間が迫り、私達は自転車に乗っておじぃとゴメスさん、集まった島の人達に別れを告げた。
玄関先まで出て、皆で大きく手を振りながら見送ってくれた。
何度も何度も振り返り、手を振りながら別れた。

どうして初対面の私達にそこまでしてくれたのか、結局おじぃに聞くことはできなかった。


その後いくつか他の島を周って、長い長い春休みは終わった。
他の島でも素晴らしい景色や地元の人達との出会いはあったけれど、与那国で体験したほどの強烈さはなかった。

大学のある街に戻った私達は、おじぃが好きだという焼酎を探して、お礼の手紙を付けて与那国に送った。



あの時の体験はなんだったのか、今になってふと思い返す。
日本の最西端の島で、初対面のおじぃに、死とは何か、いきものを殺すとはどういうことか、初めてまざまざと教えられた。


そんなことが本当にあったのか、幻のようで、でも確かに存在した、19の春だった。

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