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書くエッセイ、聞くエッセイ。

ここ数年、ウェブで読むことが減った。
自分は書くくせに、たいして読まない。kindleとか電子書籍の読書量は増えた。でも、ウェブ媒体は流し読みになっている。

タイトルから飛んで読むとき、すでに記事の冒頭に「AI要約」なるものがついているのを見ると、単語選びに向ける書き手の心配りが無効化されるのになんともいえない気持ちになりつつ、自分自身も「流し読みされても誤読されない言葉運び」の方が(このnoteでの投稿は除いて)心を配るようになってきた。

podcastとか、stand.fmとか、Voicyとか、エッセイ的なものは、むしろ耳から聞く方が自然になってきたように思う。

いっときstand.fmを試したこともあったけど、なかなかに難しいなあと感じた。

こういう文字媒体前提での語りは、基本的に独白だ。
読む方も、何かを自分に語り掛けられているというよりは、書き手と自分の重なりを見つけていくような感じがする。

でも、耳で伝える目セージは、基本的に相手がいる。

noteみたいに、「今日は変な1日だった。」みたいな導入は物語でもない限り唐突だ。

「こんにちは!ゆっかです。今日はどんな1日でしたか?」
と、(誰もいないかもしれない虚空に)誰かがいることを想定して語りかけないと、場が整わない感じがする。

だから、単純に文字媒体エッセイを音声にすればOKとはならない。それが、なかなかに難しかった。

AIはこの辺りを、どう処理するだろうか。

Chat-GPTに、先日の投稿を「ラジオ風の話し言葉に変換して」と下記投稿の文章をまるまる投げてみた。

すると、さすが「ありがち表現」をさせたら右に出るものなしのLLM。
やっぱり、ちゃんと挨拶から入ってくれた。

こんにちは、今日はね、ちょっと胸の中がもやもやしてる話を聞いてほしいんです。
ある日、オンラインで見かけた動画なんですけど、途中で見るのが耐えられなくなって閉じてしまったんですよね。主婦の方が番組に出演して、自分の抱えている問題を話していたんです。でも、その話がスタジオの人たちにはあまり真剣に受け取られていなかった。見てて、ちょっとしんどくなっちゃって。

「論理破綻している妻を、感情論者と思ってあしらう危険性」からChat-GPTが生成したラジオ風話し言葉(以下同じため省略)

目の前にいる誰かに語りかけている、この感じ。
元の文章と同じ情報を保ちつつ、雰囲気が全然違う。

最近の人は文章が読めないとか、ネガティブな意味合いで言われることも多いけど、文章読むのが苦手な人も、こうした書き方なら読めるのではないんだろうか。

もし、文章が読みにくい要因のひとつに、耳で聞く話の場合の基本である、「自分に注意が向けられている」感覚がないことがあるとしたら、それは語彙がないとか、理解力がないとかではない。

そんなことを考えていたら、あっという間に読み終えてしまった。

話しているうちに、その主婦の方の言葉がどんどん辻褄が合わなくなって、スタジオの反応もだんだん冷めていく。最終的には、なんだか幼稚な愚痴みたいな雰囲気にされちゃってました。それを見て、昔あったセクハラの訴えが軽く流された時の感じを思い出しましたね。

ただね、私はその番組を批判したいわけでもないし、誰かを晒し者にしたいわけでもない。ただ、自分が感じたことと、どうあってほしいかを話したいだけなんです。

その動画ではね、3人の子どもを育てている奥さんが、旦那さんに「これだけはやめてほしい」ってお願いしてる話だったんですよ。でも、それに対するスタジオの反応が、なんか「のろけ話みたいに聞こえる」とか、「もっとちゃんと話し合えばいい」とか、「具体的に言ったの?」とか、そんなことばかりでね。

まぁ、確かにスタジオの人たちが言ってることも、理屈としては正しいんですよ。他人を変えようなんてできないし、話し合ってお互い納得して解決するのが正しいっていうのは、わかる。でもね、現実問題として、それができる状況ってどれだけあるんだろう?

例えば、もう仕事と子育てで手一杯の人が、旦那さんに機嫌を取ったり、ちゃんと説明したりして、協力をお願いする余裕なんてあると思いますか? そもそも、そんな余裕があれば、最初からこんな問題にはなってないんじゃないかなって思うんです。

だから、その奥さんが「やめてほしいこと」を伝えたのは、もう限界ギリギリの中で「せめてこれだけはお願い!」って言ってるように見えたんですよね。

これって、セクハラの問題提起にも似てるなって思うんです。「理不尽なことがあるのはわかってる。でも、これだけは譲れないから、せめてやめてほしい」っていう、その最後の一線。だけど、これを「感情論だ」って片付けられてしまうと、なんとも言えない気持ちになります。

そりゃ、論理的な説明が大事な場面もあるんですよ。でも、家族とか長い付き合いの中で「もうこれ以上は無理」って言ってる時に、それを論理で説明しろって言われてもね…。例えば、「出したものは片付けてよ」ってお願いも、単なる価値観の違いの話じゃない場合があるわけです。特にそれが「最後通告」みたいな状況だったら。

しゃべりかたとしては、やや不自然さはあるし、内容がちょっと重いだけに語りかけられるのは意見の押し付けっぽく感じるところはある。

それが苦手だから書き言葉風のコミュニケーションが好きなのかもしれないけど、何が言いたいのか伝わるのは、語りかけなんだなあ、と思い知らされた。

論理的に説明しようとすればするほど、その背後には触れられたくないいろんな問題が隠れていることもあるんです。経済的なこととか、依存的な性格とか、男尊女卑的な考え方とか…。本人だって、そこを突きたくないから、ただ「これをやめてほしい」って言うだけにしてる可能性だってありますよね。

だから、こういう時にね、相手の感情に寄り添うことって、ただ甘やかしてるわけじゃなくて、相手を思いやることだと思うんです。それを「感情論だ」って一蹴するのは、どうなんだろうなぁって。

この辺りなんかは、読者に同意を迫ってきていて、「わたしはこう感じている報告」の枠を出ている。

この箇所の元の文章は以下だ。

これに論理的な説明を求めたら、「思いやりがある人ほど」論理は破綻するだろう。

家庭生活に対して依存的である精神的未熟さ。
生活が常に苦しい、経済力の無さ。
浮気や借金、スマホやパチンコなど、欲望への弱さ。
男尊女卑的な固定観念。
などなど。

耐え難いけれど、そこは他人だから変えられないと諦めた上での、「もう耐えられない」部分に対するせめてもの主張である場合、おそらくその人は相手を傷つけないために、根本的な原因である部分への言及は避けようとするだろう。

「女は感情の生き物だから、妻は自分の気持ちをわかってくれればいい。解決法なんて求めていないんだから、ただ黙って従えばいい」

その意味で、よくある賢い夫の対処法は「少なくとも破局しない」意味では正しい。感情論にしか見えない発言に、一応は従うのだから。

論理破綻している妻を、感情論者と思ってあしらう危険性

相手がいる想定のなかで、「事態を分析的に観察して、ありうる可能性に触れる」ことが、難しいとわかる。

「それを「感情論だ」って一蹴するのは、どうなんだろうなぁって。」なんて言っていないことまで追加しているのは、語りかけスタンスで、賛成でも反対でもない単にシニカルな発言は、なかなか伝わりづらいということだろうか。そうでないとしても、この書き換えは誤読だから、そもそも分かりにくい内容だったのかもしれない。

番組のコメント欄には「だったら離婚すればいい」っていう声もありましたけどね、まぁ彼女たちはその準備が整えば、きっとそうするでしょう。ただ、その前に「これだけはやめてほしい」って言ってるのを、どうして感情論で片付けちゃうんだろうなぁって、すごく考えさせられました。
まぁ、こうやって感情的になっちゃう私も感情論かもしれませんけどね。でも、なんとかならないものかなぁって思うんですよ。

結びに至っては、元文章では存在しない、「すごく考えさせられました」とか、「こうやって感情的になっちゃう私も感情論かもしれませんけどね。」など、ブーメランを防ぐ防衛線まで張っている。いろいろ燃えやすい時代のリスク管理までバッチリだ。

散々言いたいことを相手に投げまくっておいて、最後にお茶を濁す。
元記事では、「どうして感情論で片付けちゃうんだろうなぁ」なんて疑問を擬態した批判はしていないはずだ。

結びは「なんとも、なんともだなあ。」とあいまいにしたけれど、自分に対するパートナーからの指摘を感情論で片付けたと自覚した人に対しては、記事中で「怖がった方がいい」と、ハッキリ意思を示した。

でも、Chat-GPTによってこの箇所は、削除されている。

この編集は、何を意味しているのだろう。

これは、「語りかける伝え方」では、危険な「燃えるゴミ」になる可能性があるからではないだろうか。

語りかける言葉は、自分に向けられていると感じるから、感情をより刺激する。強い言葉は、架空の存在であっても、自分に対して言われているように感じやすい。

だから、シニカルな表現や「怖がる」のような感情ワードは、聞き手にネガティブな反応を引き起こすリスクが文章より大きい。

自分自身は、切れ味鋭めの面向かっては言えないようなことを言ってくれる文章が好きなんだけど、面向かって言えないようなことだけに、「語りかけられる」スタイルで同じことはできないのだろう。

そして、そういうスタイルが主流となれば、文字媒体でもこの傾向から逃れることは難しいと、肝に銘じなければいけないな、と思った。

ということで、流れに逆らわずに投稿を結びたい。

なんか、Chat-GPTに書き換えてもらって、自分の書きたい文章と読み手が求めているもののギャップが浮き彫りになったと、すごく考えさせられました。

まぁ、こうやって自分に都合の良い表現を模索するのは、自分が聞きやすいコンテンツを探す人と同じようなものかもしれません。でも、なんとかならないものかなぁって思うんですよ。

12/7追記: 下記記事でこの内容の盲点に気づき、指摘しました。





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ゆっか
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。