さよなら、親指集団 "The All Thumbs"
英語で不器用な人のことを、"all thumbs" と呼ぶ。
この表現を初めて知ったとき、なんと的を得た表現なのかと震えた。
わたしはまさに、"all thumbs " である。
物を動かすときに手元を見ると、第一関節より先をほとんど使っていない。
もちろんコーヒーを淹れるときとか、注意が必要な作業では使う。
でも、料理中など忙しく次から次へと何かを行うときの手を見ると、指先を使わずにほとんど鷲掴みしているのが分かる。
本来であれば、それぞれの指が少しずつ違う役割を担うことで繊細な動きを作り出せるはずなのに、
私の手は、すべてが親指のように「物をがっしり支える」仕事をしているのだ。
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親指は、物を掴むのに中心的な役割を果たす重要な指である。
親指が一本だけ逆方向に付いているから、手として物を掴むことができる。
他の全ての指と向き合ってくっつけることができるのも、親指だけだ。
親指はすばらしい。
でも、その重要な仕事は他と違うからこそ発揮できるものだ。
親指のすばらしさは、他の指の倍の長さがあるとか、倍の太さがあるとか、圧倒的な優秀さのなかにはない。
他の指との違うことに本質があり、能力は本質を生かすためのものだ。
だから、全部が親指になったら単なる不器用で意味がないのだ。
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この残念な現象を見て、わたしはある情景を思い出す。
ある若者が、自分の才能を見出す。
その源泉が自分の能力にあると思い込み、価値をもたらしてくれる他の存在との関係を無視して仲間を見下す。
そして能力の高い人を集めればすばらしいグループが作れると信じる大人が、彼の能力の高さを青田買いしようと、集団から引き抜く。
そういう若者が集められ、無邪気な"The All Thumbs" が結成される。
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これは、都市のメタファーである。
勝率がいかに低くても、自分の才能の限界への挑戦は一度は経験したいことだ。悪いことじゃない。
大切なのは、その後どうするか。"The All Thumbs" 脱退後にどう生きるかだ。
誰かのかませ犬にしかなれなかったとしても、そこで切磋琢磨し、敗北したものにしかできない仕事もある。
才能は絶対値じゃない。相対的な関係性のなかにあるのだ。
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朝から、よくわからないところまで考え込んでしまった。
考えながらご飯を作っていたから、いろいろこぼしてしまった。
はたらけどはたらけど器用にならない手。
砂糖入れからこぼれた結晶を横目に、ぢつと手を見る。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。