魂の地図を辿る旅
血の気が引いた医師の顔が、すべてを物語っていた。
「治療の甲斐なく...」
その言葉が、病室の冷たい空気の中に溶けていく。妻・理子との十年の闘病生活が、こうして終わりを迎えた。
葬儀の日、私は理子の遺品を整理していた。古びた箪笥の奥から、一枚の羊皮紙が見つかった。そこには不思議な文様が描かれ、かすかに青白い光を放っている。理子の筆跡で「魂の地図」と記されていた。
その夜、私は書き残された日記を読んだ。
『愛する人へ もしあなたがこの地図を見つけたなら、それは私があなたの傍にいない時です。この地図は、私が長年探し求めていた魂の導き手。でも使うことはできませんでした。なぜなら、この地図は「深い喪失を経験した者」にしか、その力を明かさないと言われているから。
ごめんなさい。こんな形で、あなたにこの地図を託すことになって。 でも信じています。この地図は、あなたを正しい場所へと導くはず。』
私は震える手で地図に触れた。するとそれは光を放ち、私の皮膚に溶け込んでいった。
*
廃墟となった精神病院。そこに白衣の老人が佇んでいた。
「よく来たね、待っていたよ」
村上博士——かつて精神医学の権威として名を馳せながら、突如姿を消した人物だ。彼の研究室で、私は衝撃の事実を知る。彼は30年前、重度の統合失調症の妻を持っていた。彼女の妄想は、「この世界は偽物で、本当の世界の影絵に過ぎない」というものだった。
「私は彼女を『治療』しようとした。でも...彼女の見ていた世界こそが、もしかしたら真実だったのかもしれない。我々の『正常』という概念こそが、幻想なのではないか」
博士は、妻の死後、その考えに取り憑かれ、ついには職も地位も捨て、この廃墟に籠もった。
「存在の意味を追い求めることは、水に映った月を掬おうとするようなものだ。意味は、追い求めるものではない。ただ、在るものなのだ」
*
山奥の寺院で、私は末期がんの少女・美咲と、彼女の双子の姉・美咲に出会った。
...そう、同じ名前の二人。実は、妹の美咲は既に亡くなっていた。姉の美咲は、妹の人格を演じ続けていたのだ。両親も、その歪んだ現実に寄り添っていた。
「妹は死んでいない。私の中で生きている」 姉の美咲の瞳は、狂気とも悟りともつかない光を宿していた。
ある夜、姉の美咲は私に本当の話をした。
「妹が死んだ時、私は全てを失ったと思った。でも、『私』という存在は、妹との思い出や関係性の総体でもある。妹は確かに死んだ。でも、私たちの関係性は死んでいない。だから私は、妹として生きることを選んだの」
彼女の言葉は、理子との関係について考えさせられた。死は関係の終わりではない。むしろ、新たな関係の始まりなのかもしれない。
*
老人ホームで出会った田中夫妻。一見理想的な老夫婦に見えた。認知症の妻に、夫は献身的な愛情を注ぐ。
だが、夜間の面会で、私は衝撃的な告白を聞くことになる。
「実は...彼女は私の本当の妻ではないんです」
40年前、夫は親友の妻と不倫関係にあった。親友が事故で死んだ時、その妻は既に妊娠していた。親友の子を身籠っていたのだ。
「私たちは『偽りの夫婦』として生きることを選んだ。本当の父親のことは、誰にも言わないと決めて」
そして今、認知症になった妻は、時々本当の夫(親友)の名を呼ぶ。
「それが私の贖罪です。彼女が『本当の夫』を思い出すたびに、私は『偽物の夫』としての自分を痛感する。でも、それも含めて『愛』なのだと思うんです」
許されざる愛。偽りの人生。それでも彼は、そこに真実の愛を見出していた。
*
最後に導かれたのは、理子が生前好んで通っていた古書店「夢想堂」だった。
店主の老人は、まるで永遠に時が止まったかのような微笑みを浮かべていた。
「理子さんは言っていましたよ。『この地図の旅を終えた時、きっと彼は分かってくれる』とね」
その言葉に、私の心の中で何かが繋がった。
理子は知っていたのだ。自分の死が、私にとって必要な喪失になることを。この旅が、私を深い理解へと導くことを。
老人は続けた。
「存在とは環なのです。生は死へと続き、死は新たな生を生む。愛は喪失を含み、喪失は新たな愛を可能にする。真実は、その円環の中にしかない」
私は理解した。理子の死は、終わりではなかった。それは、より深い次元での関係の始まりだったのだ。
*
今、私の手のひらには地図はない。しかし、確かな導きはある。
理子との関係は、形を変えて続いている。村上博士の言う「存在の本質」も、美咲姉妹の示した「死者との関係性」も、田中夫妻の体現した「贖罪としての愛」も、すべては円環の中で繋がっている。
人は、完璧な解答を得ることはできない。それでも我々は、問い続ける。それこそが、人間の尊厳なのかもしれない。
私は今、新たな地図を描き始めている。それは、魂から魂へと続く、見えない道標。
永遠の問いかけの中に、確かな答えがある。
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