見出し画像

夢の中の世界

夜は深く静まり返り、蒸し暑い夏の空気が重く垂れ込める中、藤村千尋(ふじむら ちひろ)は寝室のベッドに横たわり、微かに汗ばんだ額を手の甲で拭った。窓を開け放しても風一つ入らず、天井のファンの羽音だけが部屋を支配していた。彼女は瞼を閉じ、またしても心の中をうずめく不安を抑え込むように深い呼吸を繰り返す。今日は仕事で大きなミスをした。上司の視線は冷たく、同僚の同情めいた目が余計に痛かった。家に帰る道中、夕焼けの下を歩きながら「これが私の人生なのか」と、ふと立ち止まり空を見上げた瞬間、自分がどこか別の場所に行きたくてたまらない衝動に駆られたのを覚えている。

しかし、その夜、千尋は普段の眠りとは異なる感覚に落ちた。視界の端に映る世界が奇妙に揺らぎ始めると、まるで風船がしぼんでいくように、現実感がゆっくりと薄れていった。そして気がつけば彼女は立っていた。どこか別の場所――見たこともない、不思議で美しい場所に。

彼女の足元には、銀色に輝く砂が広がる海岸があった。波は透明で、打ち寄せるたびに静かな音を奏で、月光が水面に反射して淡い光の帯を作り出している。空を見上げれば、濃紺の夜空に無数の星々が輝き、その間を滑るようにして飛ぶ金色の光の蝶たちが舞っている。風は涼しく、甘い花の香りを運んでいた。彼女は驚きながらも、その場がどこか懐かしいように感じた。だが一つ確信していたことは、これは夢だということだった。

しかし、この夢には奇妙なリアルさがあった。手のひらで砂を掴むと、その冷たさや滑らかさを感じた。波に足を踏み入れると、ひんやりとした水が肌を包み込む感覚があまりにも鮮明で、現実と見分けがつかなかった。

「ここは……どこ?」千尋は自分に問いかけるように呟いた。

その時だった。海の向こうから、柔らかい声が聞こえた。「君が探しているのは、この場所じゃないかい?」

驚いて振り返ると、一人の男が立っていた。長身で、髪は白金色、瞳は深い青。年齢はよくわからないが、彼の姿にはどこか非現実的な美しさがあった。彼は優しく微笑み、手に小さなランプを持っていた。ランプの中には小さな炎が揺らめき、まるで命を持っているかのように光を放っていた。

「誰……? あなたは?」千尋は警戒しながらも、どうしても彼から目を離すことができなかった。

「僕は案内人さ。」彼は答えた。「君が今夜、ここに来たのには理由がある。この夢の中で、君は自分の人生に隠された意味を探しに来たんだよ。」

「人生の意味……?」千尋は眉をひそめた。どうして彼がそんなことを知っているのか、何を言いたいのか全く分からなかった。

彼は軽く頷き、ランプの火をそっと指先で揺らしながら続けた。「ここは夢の世界だ。けれど、ただの幻想じゃない。夢の中で君が出会うものは全て、君自身の心の深層が形作ったものなんだ。この場所も、この海も、僕も。」

「あなたも……?」千尋は彼の顔をじっと見つめた。「じゃあ、あなたは私の一部ってこと?」

「そういうことだね。」彼は微笑んだ。「でも僕の話を信じるかどうかは、君の自由だ。ほら、あそこに道が見えるだろう?」彼が指さした方向を見ると、銀色の砂浜の先に細い道が続いていた。その道は月明かりに照らされ、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。

「その道を進んでごらん。君が本当に知りたいこと、必要としている答えが見つかる場所に繋がっている。」

千尋は迷った。夢だと分かっていても、この場があまりにも現実的で、彼の言葉があまりにも説得力を持っていたからだ。だが結局、彼女はその道を歩くことにした。

細い道を進むうちに、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。砂浜は草原になり、やがて草原は古びた石畳の道に変わった。空は淡い紫色に染まり、まるで日の出前の空気のように静かで冷たい。千尋は辺りを見回しながら、どこかに人の気配がないか探した。しかし、誰もいない。彼女の足音だけが響く中、ふと、何かが目に入った。

それは大きな門だった。黒く錆びた鉄でできた門で、その両脇には巨大な像が立っていた。一体は微笑む女性、もう一体は怒りに満ちた男の像だった。門には古代の文字が刻まれており、それをじっと見つめていると、文字がゆっくりと動き出し、現代の日本語に変わっていった。

「真実は、恐れを超えた先にある」

門が軋む音を立てて開き始めた。千尋は息を呑み、その向こうに広がる暗い道を見つめた。どうしても引き返すことができない、引力のようなものを感じながら、一歩一歩、その門をくぐり抜けていった。

中に入ると、空気が一変した。冷たく湿った風が吹き抜け、遠くから何かの泣き声のような音が聞こえてくる。辺りには霧が立ち込め、視界はほとんどなかった。それでも千尋は進むしかなかった。彼女の心の中には、何か大切なものを取り戻せるような気がしてならなかった。

やがて、霧の中から現れたのは、彼女自身の姿だった。いや、それは彼女の姿をした何か――かつての千尋が、笑顔を浮かべて立っていた。

「あなたは……私?」千尋は震える声で問いかけた。

「そう、私はあなた。」鏡像の千尋は答えた。「でも、忘れてしまったんだね。自分が本当は何を望んでいたのか。」

その言葉が胸に突き刺さるように響いた。

千尋の目の前に立つ“もう一人の自分”は、柔らかな笑みを浮かべていたが、その目の奥には哀しみとも警告ともつかない複雑な感情が宿っていた。それを前にして、千尋は胸がざわつくのを抑えられなかった。彼女は恐る恐る口を開いた。

「私が何を忘れたっていうの?」

もう一人の千尋はふわりと微笑み、その場でくるりと回るようにして千尋に背を向けた。そしてそのまま霧の中を歩き始める。「思い出すかどうかは、あなた次第よ。ついてきて。私が見せたいものがあるから。」

千尋は迷った。だが、霧の中で揺れる自分の背中を見ていると、引き返すという選択肢はなぜか頭に浮かばなかった。足を踏み出すたびに、空気が変わるのが分かる。霧の中には奇妙な静けさがあったが、それが逆に千尋の心臓を鼓動させた。どんどん深い森のような場所に入り込んでいくと、木々の間に点々と小さな光が揺れているのが見えた。

光は小さな炎のようにも見えたが、よく見るとそれは人の形をしている。「これ……人?」千尋が声を漏らすと、もう一人の自分が立ち止まった。

「これらは、あなたがこれまで生きてきた中で捨ててしまった感情や記憶よ。」振り向いた彼女の表情はどこか切なげだった。「誰かに愛された記憶、失敗して傷ついた経験、手放した夢――全部ここにある。」

千尋は目の前の光を見つめた。その一つに手を伸ばすと、炎が小さく震えるようにして指先に触れ、彼女の頭の中にある映像が浮かび上がった。


それは、小学校の教室だった。窓から差し込む明るい陽射しの中、千尋は必死に絵を描いている。夢中になりすぎて時間が過ぎたのにも気づかず、先生が声をかけるまで筆を止めなかった。描かれたのは鮮やかな花畑の絵。その時、周囲から聞こえた声――「上手だね!」という友達の言葉や先生の褒め言葉に、千尋は心の底から嬉しさを感じていた。

しかしその記憶はすぐに別の場面へと切り替わった。同じように絵を描いている千尋の背後で、別の生徒がクスクスと笑っている。「そんな絵、変じゃない?」という冷たい声。その瞬間、幼い千尋の手は止まり、涙をぐっとこらえながら筆を置いた。

現実に戻ると、千尋の目には涙が溢れていた。「これ、覚えてる……でも、ずっと忘れてた。私、絵を描くのが好きだったのに……」

「そう。」もう一人の自分が静かに答えた。「あなたはその記憶をここに置き去りにした。『恥ずかしい』とか『向いていない』とか、そう思い込むことで、自分自身の一部を捨ててしまったのよ。」

千尋は無言のまま、次々と漂う光を見つめた。手を伸ばすたびに、新しい記憶が蘇ってきた。友達と遊んでいた日々、両親と一緒に海に行った日のこと、初恋の切ない終わり。楽しいものも苦しいものも、すべての記憶がそこにあった。そして気づいた。自分がどれだけのものを忘れ、手放してきたのか。

「でも……どうして?」千尋は涙を拭いながら、もう一人の自分に問いかけた。「どうして私がこれを全部捨ててしまったの?」

「それは……生きるのが苦しかったから。」彼女はそっと答えた。「人は生きる中で、痛みや悲しみに耐えるために、自分を少しずつ切り捨てていくの。でも、それは本当の自分を失うことでもある。千尋、あなたはもうずっと、自分を失ったまま生きてきたんだよ。」

千尋はその言葉にハッと息を飲んだ。確かに思い当たる節があった。仕事で自分を抑え込み、周囲の期待に応えようとする日々。笑顔を作り続けることに疲れて、本当の自分が何を望んでいるのか、もう分からなくなっていた。


「これが、あなたが忘れてきたものすべて。さあ、どうする?」もう一人の自分は静かに問いかけた。

千尋は立ち尽くしたまま、漂う光を見つめた。全てを手に取るのは不可能だと思えた。あまりにも多くのものを失い、あまりにも長い時間を無駄にしてきたような気がして、胸が締め付けられる。けれど、彼女はある決断をした。

「全部は無理かもしれない。でも……取り戻せるものは取り戻したい。」千尋は震える声で言った。「もう、自分を捨てたくない。」

その言葉を聞いた瞬間、もう一人の自分は穏やかに微笑み、その輪郭が薄れていくのを千尋は目の当たりにした。「そう。あなたがそう決めるのなら、私はもう必要ないわ。さよなら、千尋。これからは、あなた自身が自分の人生を見つける番よ。」

千尋の目の前で、もう一人の自分は光の粒となり、霧の中に消えていった。そしてその瞬間、周囲を覆っていた霧が一気に晴れ、目の前には見たこともない美しい景色が広がっていた。黄金色の草原、その先に続く小さな道。そこには、朝焼けの光が差し込んでいた。


千尋は目を覚ました。まだ暗い寝室の中、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめながら、夢の中で見た出来事をゆっくりと思い出していく。胸の奥に、何かがじんわりと灯っているのを感じた。

「そうだ……私は、私自身を取り戻すんだ。」

その日、千尋は早朝に起き上がり、部屋の隅に放置されていた古いスケッチブックを開いた。そして、久しぶりに絵を描き始めた。初めは不器用だったが、筆を動かすたびに、自分の中から何かが溢れ出してくるのを感じた。

夢の世界で出会った“もう一人の自分”はもういない。けれど、彼女の言葉と、蘇った感情の一つ一つは、千尋の中で確かに生きていた。それは新しい始まりの合図だった。

そして千尋の人生は、少しずつ変わっていく。もはや自分を切り捨てることはない。彼女は自分の記憶と感情を取り戻し、失った夢と希望を再び胸に抱きながら、これからの未来を自分の手で切り開いていくのだった。

いいなと思ったら応援しよう!