魔界グルメ探偵
プロローグ:最後の晩餐
雨が降っていた。
この魔界都市メトロポリス・インフェルノでは、雨は紫色に輝く。空から降り注ぐ魔力を含んだ雨粒が、ネオンの光を屈折させ、幻想的な光景を作り出している。
私の事務所は、第七区の路地裏にある。看板には「グルメ探偵事務所」とだけ記されている。普通の探偵とは違う。私は「味」にまつわる事件専門の探偵だ。
その日も、いつものように雨に濡れた窓辺で、ドラゴンの燻製を肴にウイスキーを飲んでいた。すると、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
扉が開くと、高級レストラン『天空の食卓』のオーナーシェフとして知られるアルカディア・ムーンライトが現れた。彼女の表情には深い陰りが見えた。
「探偵さん、助けてください。私の料理から『記憶』が消えているんです」
私は眉をひそめた。「記憶が消えている?」
「はい。私の代表作『追憶のフォアグラ』から、お客様の大切な思い出を呼び起こす効果が消失したんです。誰かが私の料理から魔法の要素を盗んでいる。そして...」
彼女は言葉を詰まらせた。
「そして?」
「明日、魔界美食評論家協会の審査が行われます。この状態では、店の格付けが下がるどころか、私の命さえ危ないかもしれない」
私は立ち上がり、レインコートを羽織った。
「案内してください」
第一章:消えた記憶の味
『天空の食卓』は、第一区の超高層ビル最上階に位置している。窓からは魔界都市の全景が一望できる。普段なら、この景色だけでも十分な値打ちがあるのだが、今夜は違った。
店内には異様な緊張感が漂っていた。
「では、問題の料理を」
アルカディアは厨房から『追憶のフォアグラ』を持ってきた。見た目は完璧だった。漆黒のソースをまとった白魚のフォアグラは、まるで月夜の湖面のよう。
私はフォークを取り、一口。
「...確かに、魔法の気配がない」
通常、この料理には強力な想起魔法が込められている。食べた人の最も大切な思い出を呼び覚まし、その記憶を味として再現する。しかし今、そこにあるのは見事な料理技術だけ。
「いつから気づきましたか?」
「今朝です。定期検査で発覚しました」
私は店内を歩き回り始めた。魔法探知機を取り出す。すると...
「これは」
厨房の隅、スパイスラックの影に、かすかな魔法の残滓を発見した。
「誰かが、この場所から魔法を吸い取っている。しかも、プロの仕事だ」
その時、店の入り口で物音がした。
振り向くと、そこには黒づくめの人影が。私たちに気づくと、相手は素早く身を翻した。
「待て!」
私は追いかける。廊下を駆け抜け、非常階段へ。相手は素早い。
「クソッ...」
私はポケットから小瓶を取り出し、中身を一気に飲み干した。途端、体が熱くなる。これは『疾風の酒』、短時間だけ身体能力を強化する魔法の酒だ。
階段を一気に飛び降り、相手との距離を縮める。後少し...という時、相手が振り向いた。
「食らえ!」
黒づくめの人物が何かを投げつけてきた。キラリと光る粉末。
「まずい!」
私は咄嗟に息を止めた。魔界では、見知らぬ粉は吸ってはいけない。相手はその隙に逃げ切ってしまった。
現場に戻ると、アルカディアが不安そうな表情で待っていた。
「探偵さん、あの人は...」
「ああ、間違いなく犯人の一味です。しかし、なぜ彼らはあなたの料理から記憶の魔法を...」
私は考え込んだ。単なる嫌がらせにしては手が込みすぎている。
「アルカディアさん、最近、変わったことはありませんでしたか?」
「そう言えば...先週、見知らぬ客から奇妙な注文を受けました。『思い出したくない記憶を消す料理』を作ってほしいと」
「それは、誰から?」
「覚えていません。その時の記憶が...曖昧で」
私は直感的に悟った。事件の核心に触れる重要な情報が、アルカディアの記憶から消されている。
第二章:記憶を食べる者
調査は深夜まで続いた。
私は魔界の裏社会に精通する情報屋、スモーク・ウィスパーを訪ねた。彼の店『記憶の酒場』は、文字通り記憶を売買する場所だ。
「記憶を消す料理?面白い話だ」
スモークは煙管を燻らせながら言った。
「最近、似たような話を耳にしたよ。『記憶喰らい』という組織が、高級料理店を狙っているとかなんとか」
「記憶喰らい?」
「ああ。他人の記憶を食べることで力を得る連中さ。特に、強い感情が込められた記憶を好む」
そこで、私は思い当たった。アルカディアの『追憶のフォアグラ』は、まさに記憶を増幅する料理。その魔法を応用すれば...
「まさか、記憶を操作する新しい魔法を開発しようとしているのか」
スモークは意味ありげに煙を吐いた。
「気をつけな。記憶に関わる事件は、いつも予想以上に深いぞ」
私は店を後にした。外では相変わらず紫の雨が降っていた。
事務所に戻ると、机の上に見覚えのない封筒が置かれていた。中には一枚の写真。『天空の食卓』の内装写真だが、日付は一週間前のものだ。
写真の隅に、小さな文字で書き込みがある。
『記憶を持つ者に死を。記憶を失う者に生を』
裏には場所と時間が記されていた。明日の深夜零時、旧市街の廃墟となった料理学校。
「罠か...でも、行くしかないな」
第三章:真実の味
約束の時間、私は指定された場所に向かった。
廃墟となった料理学校は、かつて魔界料理界の最高学府だった。しかし、ある事故をきっかけに閉鎖。今は忘れられた場所となっている。
建物に入ると、どこからともなく香りが漂ってきた。懐かしい香り。私の記憶を刺激する。
「よく来てくれた、探偵さん」
声の主は、意外な人物だった。
「マダム・メモワール...」
魔界料理界の重鎮で、かつてこの学校の校長を務めた人物。彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。
「なぜ、あなたが...」
「私たちは間違っていた」彼女は静かに語り始めた。「記憶を呼び覚ます料理なんて、人を苦しめるだけ」
「どういうことです?」
「思い出したくない記憶もある。忘れたい過去もある。なのに、私たちは『記憶』という名の毒を振りまいていた」
彼女の後ろから、黒づくめの人物たちが現れた。記憶喰らいのメンバーだ。
「だから、私は決意したの。記憶を操る料理の技術を使って、人々を苦しみから解放する。それが『記憶喰らい』の真の目的」
私は彼女の言葉の意味を理解した。彼女は善意で行動していると信じていたのだ。
しかし...
「間違っています」
私はポケットからフラスコを取り出した。
「確かに、辛い記憶はある。でも、それを消すことは解決にならない。記憶は、それを乗り越えた証なんです」
フラスコの中身を一気に飲み干す。これは特別な調合の『記憶の酒』。
「この味わかりますか?マダム」
彼女の表情が変わった。
「これは...あの日の...」
「ええ、10年前の事故の日。あなたの生徒が作った料理です」
その日、一人の生徒が失敗作を作った。その料理は予期せぬ魔法反応を起こし、多くの犠牲者を出した。マダムはその記憶に苦しみ、ついには記憶を消すことを選んだのだ。
「記憶は消えても、罪悪感は消えない。だから、あなたは無意識のうちに、他の人の記憶も消そうとした」
マダムは崩れ落ちるように膝をつく。
「私は...何を...」
その時、建物が揺れ始めた。マダムが仕掛けていた魔法装置が暴走を始めたのだ。
「危険です!逃げましょう!」
私はマダムを抱き起こし、必死で脱出を図る。建物は徐々に崩壊していく。
何とか全員が脱出に成功した頃、建物は完全に崩れ落ちた。
紫の雨が、がれきを静かに洗い流していく。
エピローグ:新しい朝
一週間後、『天空の食卓』は通常営業を再開していた。
アルカディアの『追憶のフォアグラ』は魔法協会の審査を無事通過。むしろ、以前より深い味わいになったと評価された。
マダムは罪を認め、魔法警察に出頭。しかし、彼女の真摯な反省と、被害者が実質的に出なかったことを考慮され、更生プログラムへの参加を条件に実刑は免除された。
私は相変わらず、事務所で魔界の雨を眺めている。
ドアをノックする音。
新しい依頼人だ。また新たな事件の予感。
だが、それは別の物語。
今は、この紫の雨に漂う、微かな甘い香りを楽しもう。
記憶の味は、時として苦く、時として甘い。
それでも、それが人生という料理の真髄なのだから。
終