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グルメ探偵の晩餐録
夜の東京には霧雨が降りしきり、路地の石畳が濡れてぼんやりと光を反射していた。神田秋良は黒いトレンチコートを羽織り、片手に閉じた折り畳み傘を持って一軒の小さなフレンチレストラン「ル・ミステール」の前に立っていた。都心の喧騒から少し外れたこの場所にひっそりと佇む店。だが、美食家たちの間では「一度足を踏み入れたら、二度と忘れられない」と評判の隠れ家だった。
扉には何の飾りもない。ただシンプルに、真鍮のプレートに「Le Mystère」とだけ刻まれている。秋良はポケットから薄いカードを取り出した。そこにはエレガントな筆記体で「今宵、未知なる一皿を」と書かれている。その言葉に興味をそそられ、この場所を訪れたのだった。
彼はゆっくりと扉を押した。
中に入ると、しっとりとしたクラシック音楽が流れ、温かみのあるオレンジ色の灯りが秋良を迎えた。石造りの壁には古い絵画が掛けられ、テーブルはわずか八つしかない。どの席もキャンドルの光に包まれ、静かな上品さを漂わせていた。客たちはそれぞれ思い思いにワインを楽しみながら、夜の食事を待ちわびている様子だ。
「いらっしゃいませ、神田様。」
控えめな声で秋良を出迎えたのは、黒いベストを着た給仕だった。若いが落ち着いた風格があり、動作は流れるように洗練されている。秋良は軽く会釈し、案内されたテーブルへ腰を下ろした。席に着くとすぐに、給仕がメニューとともに小さな白い皿を運んできた。アミューズブーシュ、つまり最初の一口である。
「本日は、フレッシュなカシスを使ったムースをご用意いたしました。」給仕が滑らかに説明する。秋良の目の前に置かれた皿には、純白の陶器の上に鮮やかな真紅のデザートがのっていた。カシスのムースに、赤ワインのソースが美しく流れるように描かれ、その上には小さな飴細工がきらめいている。あまりに精緻で、食べるのがためらわれるほどだった。
秋良はフォークを手に取り、慎重にムースを一口すくった。そして口に運ぶと、ふわりとした軽さとともに、濃厚な甘酸っぱさが広がる。その奥から漂うほのかな香り。彼は眉をひそめた。
「……これは、桜の葉か?」
カシスの鮮烈な酸味と調和するその香りは、日本特有の桜の葉の風味に似ていた。だが、ここはフレンチレストラン。カシスと桜の組み合わせは珍しく、しかも意図的に使われた形跡が感じられない。
「面白い味だ。」秋良は微笑んだが、心の中で何か引っかかるものを感じていた。
それから二十分後、店内に突如として緊張が走った。窓際の席で食事を楽しんでいた一人の紳士が突然苦しみ始めたのだ。胸を押さえて椅子から崩れ落ち、周囲の客たちが驚きの声を上げる。秋良はすぐに立ち上がり、その男の元へ向かった。
男の顔は蒼白で、呼吸が荒い。店内の誰もが息を呑む中、秋良は給仕に向かって鋭く指示を飛ばした。
「救急車を呼べ。そして彼の食べた料理を片付けるな。」
給仕は慌てて電話をかける一方で、秋良は倒れた男のテーブルに目を向けた。皿には、秋良が先ほど口にしたのと同じデザート、カシスのムースが残されていた。しかし、その表面には奇妙な模様が描かれている。赤いソースの渦に加え、中央には不自然な緑がかった粉が散らされていた。
秋良はその粉を指先で慎重にすくい、香りを確かめた。桜の香りとともに、かすかな薬品の匂いが混じっている。
「これは……毒か?」秋良は思わず呟いた。
男の名は城戸隆一。地元の名士であり、数多くの飲食店を経営する実業家でもあった。彼が毒を盛られたのだとすれば、それは単なる偶然ではない。秋良の探偵としての直感が、目の前の出来事が重大な謎を孕んでいることを告げていた。
城戸の皿に残されたデザートの不自然な模様。秋良はその一つ一つを観察し、手帳にスケッチを取る。模様は単なる装飾ではなく、意図的に描かれた何かの記号のように見えた。だが、それが何を意味するのかはまだ掴めない。
警察が到着し、店内はさらに混乱の渦に巻き込まれる。刑事たちは証拠を集め、客たちに事情を聞く一方で、秋良はシェフのルノーに直接話を聞くことにした。
ルノーは厨房の隅に立ち尽くし、蒼白な顔で腕を組んでいた。普段は堂々としているはずの彼も、この事態に困惑しているようだった。
「ルノーさん、今日のデザートのレシピを見せてくれないか。」秋良が尋ねると、彼は動揺しながらも手書きのノートを取り出した。
秋良はノートを注意深く読み込む。記載されているのは、カシス、クリーム、砂糖、そして赤ワインソースの材料。だが桜の葉や、それに関連するような材料の記載はない。
「桜の葉を使うことは?」
「いいえ、そんなものは一度も使ったことがありません。」ルノーの声は真摯で、そこに嘘は感じられなかった。
しかし、秋良の頭には疑念が渦巻いていた。何者かが故意に料理に手を加えたのではないか?そして、その背後にはどんな意図が隠されているのか?
調査を進めるうちに、秋良は城戸が地元の秘密クラブ「ガストロノーム会」を率いていることを知る。この会のメンバーたちは、全国各地の珍しい食材を買い占め、独占的に楽しむことで知られていた。そして、彼らの活動には常に大金が絡んでいた。
特に問題となっていたのは、城戸が最近独占した「特別なカシス」だった。そのカシスは、東京郊外の小さな村で代々育てられてきた伝統的な作物で、村人たちはその栽培方法を守り抜いてきた。だが城戸は土地を強引に買い上げ、村人たちを追い出してそのカシスを手に入れたという。
秋良はその村を訪れ、追放された村人たちの話を聞いた。彼らの中には、城戸への強い恨みを抱いている者も少なくなかった。
最終的に、秋良は城戸のデザートに混ぜられた毒の出所を突き止める。それは村の元農家の一人が、彼の行いに抗議するために仕組んだものだった。しかし、その毒の量は致命的ではないはずだった。秋良が事件を解き明かすにつれ、毒の致死量が変化した理由も明らかになった。それは、別の誰かが城戸の死を確実にするために、さらに手を加えたからだった。
二重の陰謀に気づいた秋良は、村人と城戸の秘書との間に潜む新たな真実を暴いていく――
秋良が手に入れた情報を整理するうちに、二重の陰謀の可能性が浮かび上がった。村人の一人が仕掛けた抗議の毒――桜の葉を燻した香りに混ぜた自然由来の成分――それ自体は致死量に至るものではない。しかし、さらに加えられた別の成分が、城戸の命を奪う直接の原因になった。つまり、犯人は二人いる。村人が送った「警告」を、何者かが「殺意」に変えたのだ。
「すべてが繋がっている……。」秋良は深く息を吐いた。
村での手がかり
秋良は東京郊外の村を訪れることを決めた。現場に足を運び、実際の空気を感じることで、真相への糸口を掴む。それが彼のやり方だった。
村は静かで、周囲には冬枯れの木々が立ち並び、冷たい風が吹き抜けていた。農地の多くは荒れ果て、一部の畑だけが辛うじて耕されている。かつて豊かに実ったカシス畑も、今ではその大半が城戸の手に渡り、村人たちは追われてしまったのだという。
村に残った少数の住人たちは、秋良に対して当初は警戒心を抱いていた。しかし、彼が「城戸の死の真相を明らかにしたい」と伝えると、次第に口を開き始めた。
「俺たちは城戸に全てを奪われた……。」
「土地を買い上げられ、畑も取り上げられたんです。」
「でも、殺そうなんて思っていません!せいぜい一泡吹かせたかっただけです……。」
特に詳しい話を聞かせてくれたのは、村の元リーダーである老人・小泉惣次だった。彼は、抗議のために桜の葉を使った粉末を城戸の食材に紛れ込ませたと認めた。しかし、それが致命的な毒になることはないと断言する。
「桜の葉の粉末は苦味を出す程度だ。それに、この成分は体に害を及ぼすものじゃない。少なくとも死ぬことはありえん。」
「では、誰かがそれを利用して城戸を殺した?」秋良は尋ねた。
「……そうかもしれん。」惣次は渋い顔をした。「私たち村人を装い、奴を殺した者がいるとしたら、それは許されないことだ……。」
村を後にした秋良は、新たな疑念を抱えていた。村人ではない第三者が事件に関与している可能性が高まった。そして、それは城戸の近しい人物である可能性が濃厚だった。
秘書の謎
秋良は次に、城戸の秘書である藤堂亜紀(とうどうあき)に注目した。彼女は城戸の右腕として、ビジネスからプライベートまで全てを支えてきた人物だった。冷静で知的な女性として知られる藤堂だが、その目の奥には常に何かを秘めた暗い光が宿っていた。
藤堂は警察の事情聴取に対して完璧な応対をしていたが、秋良の目は彼女の小さな表情の変化を見逃さなかった。特に、村やカシスの話題になると、彼女の表情は一瞬硬くなり、声がわずかに震える。
秋良は藤堂が持っていたバッグに目を止めた。バッグの外側には微かな粉の跡がついている。それを見た瞬間、秋良の中で何かが閃いた。
「失礼ですが、藤堂さん。お話を聞いてもいいでしょうか?」
秋良は彼女を近くのカフェに誘い、ゆっくりと話を始めた。
告白
カフェの隅、誰もいない席で、秋良はストレートに核心に迫った。
「藤堂さん。城戸さんを殺したのは、あなたですね。」
その言葉に、藤堂は一瞬だけ硬直したが、すぐに笑みを浮かべた。その笑みはどこか悲しげで、自嘲気味だった。
「……どうしてそう思うんですか?」
「村人たちの毒だけでは死に至ることはなかった。つまり、誰かがそれに別の成分を加えた。その痕跡が城戸さんのテーブルにも残っていました。そして……あなたのバッグにも微かに粉がついていました。」
藤堂はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「彼は……酷い人間でした。村人たちを追い出して、彼らの生活を壊した。その上で、自分だけがその美味を手にする権利があると信じていた。」
秋良はその言葉を黙って聞いていた。藤堂は震える声で続けた。
「でも、それだけじゃないんです。私の家族も……彼のせいで村を出ざるを得なくなりました。父は病気になり、母は心を病みました。それでも私は、彼に仕えるしかなかったんです。私は……奴隷のようなものでした。」
「だから殺した?」秋良が問いかける。
藤堂は涙を堪えるように首を振った。
「違います……私は、ただ少し懲らしめたかっただけです。でも……その時、私は気づいてしまったんです。村人たちの粉に、少し別の成分を加えれば、彼は簡単に……。」
藤堂は声を詰まらせた。
「気づいた時には、手が動いていました。……でも、それで何もかもが終わると思った。でも……何も終わらなかった。」
裁きと再生
秋良は静かに席を立ち、藤堂に最後の言葉を告げた。
「料理は人を癒し、繋ぐものだ。その力を憎しみに使えば、何も生まれない。それをあなたが一番分かっているはずだ。」
藤堂は何も言わず、ただ泣いていた。
その後、警察に引き渡された藤堂の事件は大きな波紋を呼び、村にも少しずつ平穏が戻り始めた。そして、秋良は再び旅立った。
手には、村人たちが託してくれた新しいカシスの苗があった。それは新たな希望の象徴として、未来への一歩を示していた。
「次の晩餐はどんな味がするのだろうか。」
秋良は微笑みながら、次の美食と謎を求めて霧雨の街へと歩みを進めた。
完