昔の自分に出会う
学校というところは、家庭の縮図の最初の溜まり場である。
子どもたち一人一人は家庭の代表として、学校という社会でであっている。
だから、皆抱えているもの、環境一人として同じではない。(主に公立は)
しかし、学校という場においては学力、発達の進みに寄らず公平に扱われる。良い面でもあり、悪い面もあるが、
近年はインクルーシブ教育という概念も浸透し、新たな局面を学校教育も迎えようとしている。
学校教育における公平さというものが、まだまだ現実の中での区別によるもの、という段階にみえるが、
そこを社会が全体で抱いて進む、というところをまだ始めたばかりだと、長い目で見つめることが大切だろう。
一人一人の中に、現したい何かしらの動きを見出せる社会へと開いていくには、
子どもをサポートする側の体制をまず整えておくことが必要だろうと思っている。
まずは自分から。
私自身の過去の体験から、
誰でも一人一人の中に偉大なる知性と慈悲を人は元々兼ね備えでいると思っている。
しかし、人間はそれをすっかり忘れて生まれるので、なかなか自分を信頼する事が出来ずにいる。
人間としての経験や役割の中で、感情を揺り動かしながら超えたり壊したり隠したり投げ出したり切り離したりして、そのプロセスの中で生きている。
ある日、学校で子どもたちが揉めていて、ドアをガンガンぶっ叩いてる。
なんてことない事情を強く批判され、その言葉に傷ついた子が、怒りをおさめる事が出来ずにいたのだ。
その場にいた私は、ドアは叩かない、という事だけを伝えた。
もっと長い時間関わる事ができたら、いいのだけど、それぞれの持ち場があるので、難しい。
その子の怒りの矛先は私になったので、ドアは叩かなくなった。
二、三度私の胸を殴り、うるさい!消えろ!と叫び、
なんとか落ち着いた。
瞬時にその子の性質が伝わる。自分を止めるものを破壊したいのだ。
その裏側にあるのは、求めても得られない理解への飢え。
私の中にもあるものだから、
私にその子を傷つける意図が無いことは、伝わったのだろう。と思う。いや、恨まれてるかもしれないが、、、。
彼女の中には本来的にたんぽぽのような可愛らしさがある。
踏まれても踏まれても、再び茎を伸ばし花開く強さと可憐さを彼女が持っているのを私の中に見る。
彼女の環境やそこに至るまでの血族の永遠なる流れが、彼女の姿を常に型作っている。
いつか、本当の自分と出会うために。
かけてあげたい言葉はたくさんある。それは叶わないかもしれないけれど、
一瞬の関わりだけれど、彼女のたんぽぽの花が開くことを願いながら一日を過ごした。